ドラマでは三方ヶ原で徳川軍を待ち受けた信玄(阿部寛さん)が「勝者はまず勝ちて、しかる後に戦いを求め、敗者はまず戦いて、しかる後に勝ちを求む」と『孫子』を引用した勝利宣言を行い、信玄の圧倒的な格上ぶりが感じられる演出になっていました。この時、史実では家康は数え年で32歳だったのに対し、信玄は52歳です。約20年の年齢差はそのまま、武将としての格の違いにつながっていたことでしょう。

 徳川幕府の公式史という性格上、家康の不利な部分はなるべく描きたくない『御実紀』において、三方ヶ原における徳川軍の惨敗については詳細な描写が意図的に避けられているようですが、その代わりに印象的に描かれているのが夏目広次による捨て身の献身のエピソードです。

 広次は明治の文豪・夏目漱石の祖先ともされることがあるようですが、広義の「先祖」という程度に考えたほうが事実には近いと思われます。将軍綱吉の時代から、牛込地区(現在の新宿区)の名主を務めるよう仰せつかった夏目家の主張によると、源頼朝から信濃国夏目村(現在の長野県)の地頭職を命じられた二柳国忠の次男・夏目国平の子孫は2つに分かれており、徳川に仕えたのが夏目広次の先祖にあたるそうです。そしてもう一方の子孫は武田家などに仕えた後、主家が没落したので帰農することになり、これが漱石の先祖にあたるのだそうです。

 江戸時代には裕福な名主たちが大金を払って学者に依頼し、自身の家系図を歴史上の有名人とつなげることが流行したので、本当に夏目漱石と夏目広次の先祖が鎌倉時代には同一だったとの確証はありません。しかし、2つに分かれた子孫が一方は徳川方、他方は武田方についたとすれば、三方ヶ原において、命がけで家康の身代わりになった夏目広次に対し、漱石の先祖は武田方として家康の命を狙っていた可能性もあるのは興味深いですね。