三方ヶ原の戦いにおいては、兵力で圧倒的に勝っていた武田軍が、部隊を魚のウロコのように並べて配置し、敵陣の正面突破を狙うときに適した「魚鱗の陣」を取り、そこに兵力で負けている徳川軍が、鶴が翼を広げるように部隊を左右に薄く展開し、最終的には敵軍を包み込んで殲滅する「鶴翼の陣」で激突していったことが知られています。ドラマでも、魚鱗の陣を敷いた武田軍がちらっと映っていましたね。

 しかしこの陣形、本来なら逆になるはずなんですね。数で大幅に負けている徳川軍が多勢の武田軍を包みこ込ことなど不可能で、なぜ家康がこれほどの兵力差で鶴翼の陣を採用してしまったのかは、史料を見ている限り説明がつきません。あえて鶴翼の陣を取ることで、かなりの兵数がいるように見せかけようとした……とも考えられますが、その効果はあまりに一瞬でしょうから意味があるように思えません。逆に武田軍も、数の優位性を考えれば、魚鱗の陣ではなく鶴翼の陣を取るのが定石と思われますが、そうはなりませんでした。

 徳川幕府の公式史である『東照宮御実記(以下、御実紀)』には、「神君」家康の人生において最悪最低の経験になった三方ヶ原での敗戦について、かなりボカした曖昧な記述しか残っておらず、どのような経緯で家康と家臣たちが浜松城を出て、三方ヶ原で武田軍と激突することになったのかも記されていません。

 ドラマでは、家康たちが籠城中の浜松城を武田軍がスルーし、出陣した家康たちを三方ヶ原で待ち構えていたという展開でした。武田軍が浜松城を通り過ぎたという記録があるのは、江戸時代初期に成立した歴史物語の『三河物語』などで、同書によると、信玄に無視されたと怒り、城を出て戦うと言い出した家康を家臣たちは説得しきれず、「戦の勝ち負けは、兵の数ではなく、天が決めることだ」という家康の言葉に従い、三方ヶ原を通行中の武田軍を背後から討つ作戦になったとされています。このあたりはドラマとほぼ同じですね。『松平記』でも、「眼の前の敵をおめおめと逃すのは悔しい」と、家康が慎重派の家臣たちに訴える場面が出てきます。