ケンちゃんは新参の客を見つけると、そのテーブルに行き、決まってその話をするようだった。「『パリ、テキサス』のモデル」の話と、なかなかいい勝負だ。

 筆者も何度目かの来店時にその洗礼を受けた。店にいた他の常連客や老女将は、ケンちゃんに特に突っ込むこともなく、「あんまり絡みなさんな」と優しく言うのみ。筆者と連れは「本当ですか!?」を連発し、気を良くしたケンちゃんは自分の生い立ち話(置屋の息子だそうだ)までしてくれた。帰り際、老女将にあの話は本当ですかと聞くと、そもそもケンちゃんの素性をあまり知らないようだった。

 たぶんその居酒屋は、ケンちゃんにとってのアダマンだった。顔なじみの常連は何人もいるが、自分の素性を知りすぎてはいない。そして、常連たちの会話は――創造性と生産性に富んでいるかはさておき――基本的に「前向き」だった。老女将の人柄がそうさせているらしく、酒が不味くなる愚痴や悪口が聞こえてきたことはない。皆、いつも笑顔で「楽しいこと」だけを話していた。

 ケンちゃんの話を本当か嘘か、1か0かで断定するような客は(おそらく)その店にはいなかった。だからケンちゃんは、新参の客が来るごとにその話をし続けることができた。誰に咎められるでもなく、のびのびと、生き生きと、満面の得意顔で。