ペトル&トマーシュの両監督は、ロマン・ツィーレクから映画化の許可をもらっただけでなく、裁判調書の写しなどの資料もすべて提供してもらったそうだ。脚本執筆から編集まで、両監督は意見が食い違うことなく本作を完成させたと語る。

 オルガ・ヘプナロヴァーが事件を起こしたのは1973年7月10日。オルガは22歳だった。1968年1月、彼女が16歳のとき、言論や経済の自由化が認められた「プラハの春」が訪れる。しかし、同年8月には、自由な空気はあえなく潰されてしまった。ダニエル・デイ=ルイス主演『存在の耐えられない軽さ』(88)でも描かれた、ソ連による軍事介入が起きている。本作の中では政治的な背景は触れられていないが、オルガの心理面に影響を与えたのだろうか?

ペトル「もちろん、オルガに大きな影響を与えたはずです。プラハの春の後には正常化体制が敷かれ、非常に取り締まりの厳しい社会に変わったんです。60年代には行なわれなかった検閲が再び復活しました。当時のチェコは“重い布団に覆われよう”だったと言われています。オルガもおそらく社会の重圧を感じていたと思います」

トマーシュ「映画ではあえて政治的背景は描いていません。それはオルガ自身が自分の日記で政治的な話題にほとんど触れていなかったからです。でも、現実にはソ連軍を中心にしたワルシャワ条約機構軍によってチェコは武力弾圧され、チェコの人たちもお互いを傷つけ合うような社会状況になってしまいました。そんな中、オルガは多くの哲学書を読み、実存主義に走るようになったんです」