信長と義昭は互いに利用し合おうとした関係でしたが、その関係はすぐにこじれてしまいます。すると信長は将軍である彼を京都から追放し、その後は室町幕府も滅亡させてしまいますが、それに代わる政体の長となることを朝廷から打診されてもなお、明確な構想を打ち出すことはなく、そんな信長の姿から、「既存秩序の破壊者」という後世に流布するイメージが作られていったのでしょう。

 とはいえ実際の信長は、形式的な地位よりも先に、経済基盤を盤石なものに整えることに大きな関心があったのかもしれません。伝統的な権威にまったく興味がなかったとはいえないものの、官位や地位の獲得には高額のお礼金が必要だったので、これを嫌った可能性はあります。

 信長は朝廷とも一定の距離を取っていました。正親町天皇(おうぎまちてんのう)は、義昭の上洛計画が動き始めた永禄9年の段階で、信長の伸びしろ(そして経済力)を見抜いて、御所の修繕費用や、当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王の元服儀式の経費300貫(≒現代の3000万円)の負担をしてほしいと「おねだり」を始めます。信長は「まずもって心得存じ候」――「 とりあえず考えておきます」と渋ったものの、一応これに応じました。しかし、誠仁親王のために信長が上納してきた300貫は兌換価値の低い“悪銭”で、額面の数分の一以下の価値しかなく、朝廷関係者を驚かせたのです。

 また、永禄12年(1569年)には、信長を(義昭の)副将軍にしたいという正親町天皇の勅旨に対して無言を貫き、実質的にこれを無視しています。信長と正親町天皇の関係についても、お互いのさまざまな思惑が交錯しているわけですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。

 『どうする家康』ではだいぶ「怖い人」として描かれている信長は、次回予告映像で「この乱れた世を本来のありすがたに戻す」と宣言していましたが、義昭や正親町天皇との関係がドラマでどう描かれるのか、楽しみですね。