上杉謙信も義昭から頼られた一人ですが、義昭の不幸な境遇に同情はしても、具体的に彼の上洛と将軍就任を手助けしようとはしませんでした。そんな中、世間から見ればただの新興勢力にすぎない信長だけが名乗りを上げ、永禄9年(1566年)9月、義昭・信長による「第一次上洛計画」が始動しました。信長にとっては、功名のための「投資」のような行動だったのではないか、と思われます。

 しかし、このときは信長が美濃の斎藤家との戦を始めてしまい、敗戦したことで計画はすぐさま頓挫することに。義昭は信長のもとを離れ、越前・朝倉家の保護を受けるようになったものの、上洛は果たせませんでした。

 それから2年ほど経過した永禄11年(1568年)7月、信長が再度、義昭に全面協力すると申し出たので、義昭は信長のいる岐阜に移動し、彼らの「第二次上洛計画」がスタートしたのでした。