そんな氏真を京都の上流社会との接点とするべく、信長は彼を重用することになります。信長の死後も、氏真は秀吉、家康らとの関係を良好に保ち、5人いた子どもたちの将来をも安定させることに成功し、今川の血脈を後世に伝えました。運命の皮肉を感じずにはいられませんが、父・義元から授けられた教育の成果が、想定された形とはまったく異なるものの、しっかりと活かされたと考えてもよいのではないでしょうか。
家康より1年ほど早く亡くなった氏真の辞世と伝えられる歌は2つあります。
「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして」
「悔しとも うら山(やま)しとも 思はねど わが世にかはる 世の姿かな」
「私が大成できなかったのは、時代と自分が合わなかったからだ。全て自分の責任で、運命や誰かを恨んだりしない」とか「悔しいとも羨ましいとも思わないけれど、自分が考えていた世の中とは、本当に変わってしまったな」といずれも己の人生を達観したような歌ですが、その行間からは、やはり無念の思いが溢れてきているように感じてしまいます……。