ーー吉田美和さんは?
馬渡:美和さんも私の楽曲「フォーチュンテラー」のレコーディングを見ながら「マワ、すごい良い曲だね」と言ってくれて。ただその時は歌に集中しすぎるあまり「ありがとうございます」のひとことも言えず「ああ、そうですか」くらいに返してしまったんです。それは今でも悔やんでますね。打ち込みをやっていたことや病気もあり、コミュニケーションが苦手だったんですよ。
ちなみに「ティナ馬渡」というステージネームを付けたのも美和さん。おそらく、顔のワイルドさとティナ・ターナーのようなウィッグを付けていたのが由来だったのかな(笑)。
――1992年にデビューした時の心境はいかがでした?
馬渡:渋谷のスクランブル交差点を渡ったところに、垂れ幕の広告が出たんですよ。歩いていると「あ、私だ!」と。レコード会社の方には本当に頑張ってもらいましたね。ただドリカムファミリーということで期待もされていたのですが、そこまで売り上げは伸びませんでした。でも、それを聴いた方がオファーしてくれたのが『幽遊白書』の楽曲の制作だったんです。
2ndアルバム『nice unbalance』の9曲目が「微笑みの爆弾」。その制作だけは中村さんも見守ってくれていましたが、あとのセルフプロデュースは試練の連続でした。ポップだけどR&Bなどのブラックミュージックの要素を入れたり、とにかく制作が大変だったことしか覚えていません。
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