――ドリカムのサポート時代についてのお話も気になります。

馬渡:もう勉強になったというレベルじゃないですよ。ドリカムは打ち込みをベースにしたバンドで、中村さんからも「音源に近い感じで演奏してくれ」と言われていました。リハーサルの1週間前からは元メンバーの西川(隆宏)さんとスタジオにずっとこもって、音色プログラミングの仕込みをしてました。これが本当に大変で。

 実際のリハでも進行についていけずパニックでした。あるとき、「未来予想図Ⅱ」の、あのイントロが鳴らずに大問題に(笑)。「どうなってるんだ?」と現場がザワつくなかで必死に配線を確認したのを覚えています。1年目のリハは毎日泣いて帰りました。

――初回の史上最強の移動遊園地「DREAMS COME TRUE WONDERLAND」(1991年)も、馬渡さんがキーボードとコーラスを務めていたんですよね。

馬渡:そうです。最初が国立代々木競技場第一体育館で、その後は大阪城ホール、名古屋レインボーホールと。今思えば、21歳ですごい経験をさせてもらいましたね……。

 2年目からは慣れもあり、だんだんと楽しくなってきたんですよね。せっかくここまで続けたから、中村さんに「もう私ドリカムにいます」と伝えたら「何言ってるんだ、2年うちでやったら3年目はデビューと決まってるだろ」と返されたのも懐かしい。デビューしてからも彼には1stアルバム「逢いたし学なりがたし」のプロデュースをお願いして、録音時の生ブラス指揮や「男友達」という曲でコーラスをしてもらいました。