過失から故意へ

 『フェイブルマンズ』は後半で、やや唐突に学園青春ものになる。青年に成長したサミーが転校先の学校でいじめられたり、女の子と仲良くなったりするのだ。一見して、スピルバーグが何にピントを合わせようとしているのかわからない。フェイブルマン一家の家族ドラマは依然として続いているが、いまいち「スピルバーグが映画の才能をめくるめく開花させていく」感に乏しいのだ。

 しかしそれもまた、「フィルムの暴力性」を描くための念入りな準備だったことが後に判明する。

 終盤、サミーを終始いじめ続けてきたローガンという同級生の男が、サミーが彼を撮ったフィルムによって、信じられないほどのダメージを受けるのだ。この一連の流れには、スピルバーグ作品には珍しいある種の難解さがあり、複雑で、業が深い。スピルバーグらしからぬ、と言ってもよい。しかし彼は、明らかに“これ”を描きたかった。ミッツィの「ある真実」を暴いたのとは別の意味で、フィルムは恐ろしい凶器にもなりうるのだということを描きたかった。

 ちなみに、ミッツィの「ある真実」を写してしまったのはサミーの「過失」だが、ローガンに対する仕打ちは完全にサミーの「故意」である。つまりスピルバーグ(≒サミー)は、かなり若い頃から「映画の悪魔」と取引をしていた。フィルムに宿る悪魔的な力に早い段階で気付き、それを我が物にしていたのである。