開示された「フィルムの暴力性」
スピルバーグにはいつも、「どうしても撮りたい画」がある。それが、ショットやシーン単体ではたとえ不謹慎だと言われる性質のものあっても、彼は何とかして、その画が作中に存在する必然性を全力で用意する。多くの人が眉をひそめる半端なくリアルなゴア描写であっても、戦争ヒューマンドラマという誰も否定できない大義名分に紛れ込ませれば、シーンの存在は許容され、むしろ称賛される(それが『プライベート・ライアン』だ)。
ある種のスピルバーグ好きは、彼のそういう狡猾さを、茶目っ気を、あるいは家族ドラマの名手などと言われる陰で毎回炸裂する狂気や変態性を、こよなく愛している。「すごい映像」が撮りたいというその一心で、「家族愛」モチーフを方便として利用し、大予算を引っ張ってくる彼の映画人としての手腕を、心からリスペクトしている。
では『フェイブルマンズ』においてスピルバーグが本当に描きたかったことは、いった何だったのか。おそらく今回は、「どうしても撮りたい画」というより「どうしても撮りたいテーマ」だった。
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