望月千代女および彼女が育成した女忍者たちが、ドラマの千代(たち)のように大活躍できたかは不明です。また、信頼できる同時代の史料を見る限り、伝道者の姿で各地を回った歩き巫女などが、実際に忍びの活動も兼任していたかどうかも不明です。ただ、各地を練り歩く伝道者に注目したのは信玄だけでありません。(これまた一説に忍びを使うのがうまかったとされる)真田家では、歩き巫女だけでなく、山伏や高野聖(こうやひじり、半僧半俗の下級僧)といったさまざまな宗教者の姿を借りた忍びの者を使っていたという話があることも知っておいてください。
『どうする家康』の千代は、巫女とはいいながら、外見、口調ともに遊女のような艶っぽさを持つ女性でした。実際の歩き巫女も、各種祈祷や死者の霊を呼び、生者と会話させる「口寄せ」などを行うだけでなく、歌や踊りを披露したり、遊女のような仕事もしていました。要するに、彼らは生きるためなら何でもしてしまう「怪しい存在」で、歩き巫女=忍びの者とはいえなくても、何らかの形で諜報活動に携わっている者が歩き巫女に変装して各国に侵入していた可能性は十分にあるでしょう。
ちなみに、望月千代女が忍者だとすれば甲賀(こうか)の忍者だったとみられますが、忍術には、現代でも有名な伊賀流・甲賀流の2つ以外にも数多くの流派……一説に49もの流派があったとされます。すべてが江戸時代以降に創作された伝説と断言することもできるでしょうが、戦国時代は大名の数だけ忍びの流派があったのではないかという気もする筆者でした。