忍者関係の古文書として知られる『万川集海(まんせんしゅうかい)』には、信玄が名将と呼ばれるようになったのは忍びを巧みに使いこなすことができたからだという記述が見られます。同書にいわく、信玄は「忠・勇・謀(=忠義、勇気、はかりごとに)巧みに達したる者を三十人抱え置きて、禄を重くし賞を厚くして間見、見分、目付と三つに分け、その惣名(=総称)を三者(みつもの)と名付けて、常々入魂ありて軍事の要に用い給い」たそうです。「間見」は、遠くの敵を観察し、「見分」は敵に近づいて観察する役割です。また、「目付」とは、敵の陣中などに紛れ込んで、内情を偵察してくる役割のことですが、信玄が独創的なのは、一人の忍びにこれら3つの仕事をすべて負わせるのではなく、それぞれを得意とする者たちを集め、チームで活動させたという点です。
信玄は戦を始める前に、当時重要視された「日取り、方取り(=作戦決行日時の吉凶を占う行為。当時の軍師=軍配者の主な仕事)」と同様に「三者」を用いることを重視していたといい、「隣国の強敵と戦いて一度も不覚を取らざること、全く三者の功なり」とあります(『万川集海』)。「三者」という忍びのチームの活用に長けていたというわけですね。
『万川集海』によると、信玄は(ハニートラップなど)男性忍者にはできない内容の仕事をこなす女性忍者、いわゆる「くのいち」を考案し、自らの手で彼女たちを育成したとされています(ちなみに同書によると、「くのいち」に対する男性忍者の別名が「たぢから」です。女という字を分解したのが「くのいち」であるように、男を「田」と「力」に分けているのですね)。そして「くのいち」集団のリーダーが、『どうする家康』に出てくる千代のモデルと考えられる望月千代女でした。
もっとも、「三者」という表現は、江戸時代はともかく、戦国時代の文献には見当たらず、望月千代女率いる女性忍者集団の情報も戦国時代の信頼できる文献には登場しません。そのため大半の研究者には、実在した可能性はないと判断されてしまっています。それでも、信玄にまつわる忍者伝説のすべてをフィクションだと言い切れるのかというと、そうともいえない気が筆者にはします。(1/2 P2はこちら)