それにしても、史実の服部半蔵とはどんな人物なのでしょうか? 彼から見て1歳年下の家康に仕えた服部半蔵こと服部正成は、忍び道具ではなく、槍の名手として知られる人物で、彼の祖父の代から三河に移住した武士の一族の出身です。つまり、『鵜殿由緒書』に見られるような、ゲリラ戦法を得意とする「忍び」の者ではありませんでした。
「服部半蔵」とは、戦国後期以降、服部家の当主の男性が名乗った“ビジネスネーム”です。当然、二代目・服部半蔵こと正成には「私は松平家=徳川家に代々仕えてきた三河武士である」という自認があったと思われます。ドラマ公式サイトのプロフィールに「本人は武士と思っている」とあるのは、この部分を反映させたものでしょう。一方で「忍者ではないが、忍者の代表」とも書かれていますが、実際に彼が率いることになったのは最下層の兵卒(のちに「伊賀同心」などと呼ばれる)で、我々が想像するような「忍者」たちのリーダーではありませんでした。また、第5回のあらすじでは、服部半蔵ら伊賀忍者の起用を提案するのが本多正信とされていますが、前述のように服部家は代々松平家に仕えてきた武士であり、本多正信がわざわざ仲介する必要は本来ありません。むしろ、史実において、当時の服部半蔵と本多正信の接点は不明なのです。「不明」だからこそ、「もしかしたら、あったのかもしれない」と考え、想像の翼を広げるのは自由ですが……。
第5回は服部半蔵とともに本多正信の初登場回となりますが、この時期の正信の評価については史料が乏しく、詳しく知ることはできません。ドラマの公式プロフィールでは「家臣団の嫌われ者」「大久保忠世(小手伸也さん)の紹介で登用されるが、胡散臭く、無責任な進言をするイカサマ野郎」とひどい書かれぶりですが、後に家康のブレーンの一人として家臣団の中で急速な出世を遂げる正信は、若い頃に家康を裏切って逃走していたことがあります。それも約20年もの間、家康のもとを離れていました。