鵜殿一族出身で、後に僧となった日翁という人物が江戸時代初期の寛永年間(1624~43)にこの戦を回想した記録(『鵜殿由緒書』)によると、「家康公(略)江州(略)の多羅尾四郎兵衛(たらお・しろべえ、多羅尾光俊)と云ふ大名の元より、忍びの上手を呼び下し」云々とあります。
この文書における「忍び」の語が指すものは、現代人がイメージするような「忍者」ではありません。家康たち当時の武士は、いわば貴族層で、正規の軍人でもあります。しかし、戦国時代、各地には“半農半武”の人々による自警団が数多く結成されていました。「忍者」の代表格として現在では考えられがちな「甲賀者(こうかもの)」「伊賀者(いがもの)」と呼ばれる集団も、史実ではそういう“半農半武”の人々のことだという理解でよいと思います。
彼らは身分的にはいわゆる雑兵、民兵にすぎません。しかし、農民に武器を持たせただけの通常の足軽とは異なり、『鵜殿由緒書』で「忍び」と呼ばれたような人々には、一般的な武将たちでは及びもしない驚異的な身体能力や、現代でいえばゲリラ的な戦闘のノウハウがあったと思われます。
鵜殿父子がこもる上ノ郷城は、巨大な土塁(土を盛って造られた壁)を持つことで有名な城だったので、正面から攻める作戦では犠牲が多く出る危険がありました。それゆえ、家康は機動力に長けた「忍び」たちを、部下のツテをたどって呼び、彼らに協力を求めたのだと考えられます。『どうする家康』のノリからすると、ゲリラ戦術どころか、忍術、妖術入り乱れてすごいことになりそうですが……。
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