『尾参宝鑑』という書物には、「永禄6年7月」の項目として「(元康から家康に)改名の理由」の記述があります。それによると、「永禄四年信長と(家康の)面会の節」に、「尾張国稲葉郡光明寺村光明寺住職」の「(青井)意足和尚」なる人物が武家にとっては神聖な存在である「八幡太郎義家」の「兵法を伝授」しているらしいので、それを教授してくれないかと信長が頼んだところ、「吾(われ)は平氏なれば門弟たるを得ず」……自分(信長)の先祖は平家だから、和尚の弟子にしてもらえなかったのだそうです。そして信長は家康に、「御辺(ごへん、「あなた」という意味)」は源氏なので「之を学ぶべし」と言ったというのです。
さっそく家康は意足和尚を岡崎に呼び、兵学の特別授業をしてもらうわけですが、授業が終わった際に和尚から「八幡公の兵学を窮(きわ)む故に義家の一字をも受(うけ)らるべし」……すなわち「あなたは八幡太郎義家公の兵学を極めたから、その証しとして、彼のお名前から一文字いただきなさい」と勧められたといいます。これが『尾参宝鑑』が説明する、元康から家康になった理由です。
しかしここで注意してほしいのは、『尾参宝鑑』という書物は、明治になってから愛知県の伝承を集めて刊行されたものにすぎず、さらにこの逸話の出どころについての記述もありません。のちの調査の結果、「尾張葉栗郡葉栗村」の「青井唐氏所蔵の意足居士背像の讃」(意足の子孫たちが所蔵した意足の肖像画に書かれた文章)に、兵学の才能が認められた意足が家康に特別授業をしたことや、改名を勧めたという先述のエピソードが記されていたそうです。これは、1958年から1961年にかけて発刊された全5巻の『徳川家康文書の研究』(日本学術振興会)に掲載された情報を筆者なりにまとめたものですが、著者の歴史学者・中村孝也は「家の字を採用した理由を、遠祖八幡太郎義家に結びつけたのが興を惹くに足らうか」(第5巻)としかコメントしていません。つまり、学問的には信じるに値しない精度の情報ということでしょう。