個人的に興味深かったのは、一般的によく知られているとはいえない今川家の重臣・岡部元信(田中美央さん)が登場し、今川家への忠義と、氏真の人質への対応には心の底では同意できていないと見られる葛藤を演じて話題となったことです。元信は今川家が完全に没落した後は甲斐の武田家に仕え、後に家康の宿敵のような存在となって彼を何度も苦しめたことが知られているので、今後の登場もありそうです。

 さて、今回は家康の改名についてお話ししましょうか。本稿では読者にとってなじみの強い名称に統一する意図で「家康」と呼んでいますが、ドラマ上ではまだ「松平元康」を名乗っている段階ですね。次回の第7回「わしの家」でいよいよ家康に改名することになるようで、予告映像のセリフにあった「この三河をひとつの家だと考えておるんじゃ」というのが「家康」の由来とされることになりそうです。しかし実際には、元康から家康に改名した時期や理由、そしてその由来についてはっきりしたことはわかっていません。

 時期については、おおよそのことはわかっています。手紙や書類の署名の状況から、家康の嫡男・竹千代と信長の娘・徳姫の婚約が成立した永禄6年(1563年)の「6月から10月の間に、名を家康と改名」(国立公文書館のサイトより)したと考えられていますね。一方、家康の公式伝である『東照宮御実紀(以下、御実紀)』には、「君はこの年(※同書によると、永禄6年ではなく永禄4年に)お名前を家康と改められた」とあるだけです。つまり、同書が編纂された江戸時代後期の時点で、徳川家関係者の間ではすでに家康の改名時期についての正確な記録が失われていたことがわかります。改名理由も記されておらず、要するに改名の時期も理由も「よくわからない」のです。

 それでも、彼が「元」の文字を捨てた理由は、想像しやすいです。今川家からの決別を、内外、とりわけ当時の家康が新たな同盟関係を結ぶことになった織田家に対して宣言するためであったと見るのが正しいでしょう。元康の「元」の文字は、彼が元服した際、烏帽子親になってくれた今川義元から頂いたものでしたからね。余談ですが、二代将軍となる秀忠の「秀」の文字も、当時徳川家が仕えていた豊臣秀吉から頂いたものでしたが、豊臣家を滅ぼした後も秀忠は改名しておらず、名を頂いた主人との関係が終了したからといって、必ずしも名前=諱(いみな)を変えねばならないという風習はありませんでした。だからこそ家康が「諱」を変更した背景に、本人の強い意思があったのは間違いありません。それだけに、史料が残されていないのは残念この上ないですね。