それでも『寛政重修諸家譜』において、「十六歳」の服部半蔵が忍者たちのリーダーとして「上ノ郷城攻めに参加した」として記されていることは注目に値する部分です。これはおそらく、半蔵が江戸時代に、忍びのリーダーとしてネームバリューと人気が上昇したことが影響していると思われます。後世に出た人気と評価が史実を侵食していった興味深い一例でしょう。(1/2 P2はこちら)
ドラマの半蔵は忍び道具の扱いがまるでダメという設定になっていましたが、史実では槍の名手だったとされており、そのため半蔵が家康による上ノ郷城攻めに正規兵として参加した可能性はありえます。しかし、「忍者の首領として、服部党こと伊賀の忍びたちを引き連れて上ノ郷城攻めに参加した」という可能性はないということです。余談ですが、ドラマの服部半蔵と服部党の面々は、通常の武士たちのように忠義心ではなく、主に金銭で結びついた関係のように描かれていましたが、史実でも半蔵と彼の部下たち(史料では「伊賀同心」などと呼ぶ)の折り合いは悪く、離反されたりもしていますね。
上ノ郷城攻めについて、当時の信頼できる史料からわかることは、(伊賀ではなく)甲賀の忍びたちが城に夜討ちをかけ、櫓(やぐら)などを燃やして城内を混乱させ、そのスキに鵜殿長照父子らを生け捕りにすることができた……という程度です。ドラマでは、その困難なミッションを可能にしたのが忍者たちの超人的な活躍だったというように映像化するのだと思われます。
しかし、武器を掲げ、戦意にたぎる相手を「殺す」より「生け捕り」にするほうが何倍も難しいことです。史実においても、忍びの者たち、あるいは家康主従がどうやって鵜殿長照父子らを捕まえることができたのか(鵜殿長照には討ち死に説もありますが)は大いなる謎ですが、ドラマでは我々視聴者が納得できるような“答え”が用意されていることに期待したいところです。