黒装束が忍者と結び付けられたのは、18世紀中盤あたりの歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台の演出が源流であろうといわれていますね。舞台において黒=見えない色(=見えないもの)という「お約束」があるからでしょう。次回の上ノ郷城攻めでも黒装束の服部党が大活躍するのは確実だと思われますが、こういう歴史マメ知識は頭の片隅にでも入れて置いてください。

 前回のコラムでは、上ノ郷城攻めで協力したのは服部党(伊賀の忍び)ではなく、「(家康公が)甲賀二十一家の者どもに御頼み(『甲賀古士訴願状』)」して、わざわざ呼び寄せた甲賀の忍びたちだった、というお話をしました。

 それでは「服部党」こと、伊賀の忍びたちが上ノ郷城攻めに関与するというドラマのストーリーは実際にはなかったのか?というと、江戸時代後期に編纂された『寛政重修諸家譜』という書物の「服部半蔵正成」の項目に、「三河国西郡宇土城(=上ノ郷城の別名)夜討の時、正成十六歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます」という記述があります。

 しかしこの史料、「正成十六歳」と記されている点が問題で、彼の享年から逆算すると、服部半蔵(正成)が16歳だったのは弘治3年(1557年)頃になるはずで、上ノ郷城攻めのあった永禄5年(1562年)とズレが生まれます。この弘治3年は家康が瀬名と結婚した年にあたり、大きな戦があったことすら確認できません。つまり、別の戦と混同された可能性も低そうなのです。