◆映画に魅せられた少女の夢を阻んだもの

「私自身、いろいろな壁にぶつかってきました。そんなとき、自分とは何か、私は何をやりたいのか、自分自身のために私は進むべきか退くべきかと常に考えてきた。いつも中心に自分がいたのね。自分の人生ですから当然のこと。でもそこで自分を捨てて要領よく生きていこうとしたり、男に媚びたりしていたら、きっと今はこんな気持ちでいられなかったでしょうね。常に自分を真ん中に置く。苦労はあるけど、そのほうが気持ちのいい人生を送れるんですよ」

徳島で生まれ、静岡で育った浜野さんの小学校時代の楽しみは、土曜日の午後、弟を含めた家族4人で映画を観に行くことだった。ところがその映画好きの父が、中学生のときに急逝。専業主婦だった母は苦労して働きながら、子どもふたりを育てた。映画を観に行くお金はなかったが、浜野さんは父との思い出をたどるように、土曜になると映画街に出向いて看板やポスターを見て歩いた。

そんなとき映写技師のおじさんと出会い、映写室から映画を観て心を鷲づかみにされ、毎日、映写室に通うようになった。「おじさん」から映画についてさまざまなことを教えてもらった。このときに映画に携わる仕事をしたいという希望が芽生えたのだろう。

高校卒業後、映画を学ぶ学校がなかったため、東京写真専門学院に入学した。たまたま草月アートセンターが映像作品を募集すると知り、仲間とともに映画を制作した。浜野さんは監督・脚本を担当。作品は公募で選ばれてスクリーンで上映された。

これで映画界への足がかりができたと思ったが、そうはいかなかった。

「当時、映画会社に就職できるのは大卒男子だけ。高卒女子なんて論外なわけ。女になれない職業があってたまるかと思ったわね」

誰に相談しても、女が監督? と相手にもされなかった。こうなったら当時“大手五社”といわれていたメジャーな映画会社以外の映画制作会社を探すしかない。あるときたまたま観た映画のクレジットに目が釘付けになった。「制作・若松プロダクション」「監督・若松孝二」の表示があったからだ。