信長は家康より9歳年上です。特に幼少期における9歳の年齢差は相当大きく感じられたはずで、その信長から“武芸の稽古”とはいえないような苛烈さで攻め立てられ、馬乗りになられて「食ってやろうか」などと言われたのを思い出してしまった家康の手は、激しく震えていました。

 ……ということは、このドラマでは、今川家の人質になる前の家康が(一時期にせよ)織田家の人質だったという設定を全面的に採用するようですね。前回のコラムでも少し触れましたが、家康が「義理の祖父・戸田康光からに裏切られ、人質として織田家に大金と引き換えに売り飛ばされた」という逸話は確かに存在し、『三河物語』『当代記』など比較的信頼性の高いとされる複数の史料に見られるので、長い間、事実だと考えられてきました。

 織田家が、家康少年を売った戸田康光に支払ったとされる金額はなんと「1千貫」。「貫」は戦国時代の銀貨の単位で、現代なら6000万円~1億円程度にも相当したと考えられます。

 しかし、駿府の今川家の記録にある家康少年の情報と、家康が織田家を経て今川家の人質になったと主張する史料の情報とでは、微妙に時期に食い違いが見られます(黒田基樹著『家康の正妻 築山殿』平凡社)。それゆえ織田家の人質になったという“定説”には疑問の残る部分があり、少年時代の家康と信長が顔合わせをしていた可能性も「低い」と考える学者もいます。その場合、家康少年が信長から「兎」と呼ばれたり、「食ってやろうか」と言われていたのは「絶対にありえない話」となってしまうのでした。