「猪木VS国際軍団はすごい盛り上がるはずだったのに、最初でちょっとコケちゃったのよ。っていうのは、国際軍団って見かけは反社みたいな格好してるわけ。その人たちが、田園コロシアム(1981年9月23日)の猪木の試合前に入ってきた。で、マイクを向けられて。『イノキー、国際プロレスの強さを見せつけて新日本プロレスなんかぶっ潰してやるからな!』が欲しいわけよ。でも、どうなったか?」(有田)
同日のメインは、猪木VSタイガー戸口による一戦であった。その直前にリングに立つ、はぐれ国際軍団の3人。そこでマイクを向けられたリーダー・木村は、以下のような言葉を発した。
「こんばんは。私たちは国際プロレスの名誉にかけても、必ず勝ってみせます。またですね、この試合のために、今、私たちは秩父で合宿を張って死にもの狂いでトレーニングをやっております」(木村)
まるで、母親へ送る手紙みたいに生真面目さがにじみ出た、木村からの宣誓であった。猪木の顔を見ると、「あの野郎、何やっているんだ」と冷えた表情になっている。直後、空気を察した浜口が代わりにマイクを握り、ドスの効いたマイクアピールでリカバリーを試みたシーンも含め、一連の流れがプロレス界に伝わる「こんばんは事件」の顛末だ。
この事件は業界内外にインパクトを与え、例えばビートたけしは「こんばんは、ラッシャー木村です」といち早くお気に入りのギャグとして木村の語録を採用、重宝し続けたものだ。
しかしである。もしここで、プロレス的にがなり立てるいかにもなマイクを木村が行っていたらどうなっていたか? 「弱い犬はよく吠える」ではないが、最初からファンに格下の印象を与えてしまい、“闘将”ラッシャー木村の説得力は失われていたと思うのだ。「こんばんは」は、逆に静かな闘志を感じさせるマイクアピールだったと筆者は捉えている。
その後、新日マットでヒール化していった国際軍団。新日主導によるリニューアルの結果、国際軍団の3人は見事にファンからの憎悪を集めた。ついには木村の家に物が投げ込まれ、飼っていた犬は新日ファンによるいじめでノイローゼになってしまった。心を痛めた木村はプロレス誌の編集部を訪ね、心の内をブチ撒けた。
「新日本プロレスの客は、家庭や学校でどういう教育を受けてきたのか。よその団体を訪れたから、私は『みなさん、こんばんは』と挨拶したまで。それを笑った挙げ句、帰れ帰れとはどういうことか。私はそういう失敬な教育は受けてない!」(木村)
しかし、次第に「こんばんは事件」は不思議な形でファンに受け入れられるようになり、のちの“ラッシャー木村のマイクパフォーマンス”につながったのだから、人生はつくづくわからない。
よりによって、猪木追悼の企画で増田が取り上げたのは「海賊男」であった。猪木史の名勝負を挙げるでもなく、わざわざ黒歴史をピックアップし、斜め上に行こうとする振る舞いはいかにもプロレスファンな悪癖だ。番組内で増田が紹介したのは、1987年3月26日における猪木VSマサ斎藤の一戦であった。
「猪木とマサ斎藤の試合を楽しみに、みんな大阪城ホールに集まってるんです。で、ここに海賊男が乱入してくる。これもいろんな説があって、対戦相手のマサ斎藤が海賊男に『途中で乱入してこい。猪木に手錠をはめて、リングから引きずり下ろして、会場の外に連れて行け』と指示をしたという説がありまして」(増田)
実際に乱入した海賊男は、なぜか真っ先にマサ斎藤の右手に手錠をはめた。そしてもう片方の手錠は自らの右手にはめ、そのままマサを控室に連行したのだ。その後、なんらかの器具で手錠を切り、身動きできるようになったマサ。彼はリングへと戻り、そのまま試合は再開。しかし、腕に巻いてある手錠でマサは猪木を殴打し続け、結果、マサの反則負けという不可解な結果に終わってしまった。
土田 「海賊男って何?」
有田 「1つの敵を作る予定だったんだけど、あまりにもこんなミスが続いちゃって、スーッとなくなっちゃったの(苦笑)」
勝俣 「蝶野(正洋)は(海賊男の中身として)入ってたかもしれないとはモヤッと言ってた(笑)」
ケンコバ 「いろんな人が『俺、海賊男やってたよ』って言うんですけど、数が合わないんです」
この日の「猪木-マサ斎藤戦」で乱入した海賊男の“中の人”は、メキシコから留学し、新日所属になったクロネコ(ブラック・キャット)だと言われている。当時まだ、日本語に不慣れだったクロネコ。彼は流れをよく理解できず、二択を間違えてマサに手錠をかけてしまった……というのが、識者による推察だ。
この低調な結末に観客は激怒。リング上に物を投げ入れ、椅子を投げ飛ばし、館内に火を点けるなど、ファンたちの怒りは大暴動に発展した。新日には団体史に残る“3大暴動”が存在するが、その内の1つがこれである。
もう1つは、「猪木VS長州」を期待するファンの気持ちをよそに、たけしプロレス軍団(TPG)からの刺客・ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチを猪木が強行した「イヤーエンドイン国技館」が挙げられる。前述のマサ斎藤戦と同じ、87年の興行だ。
この頃、猪木の思いつくアイデアは完全に迷走していた。結果、主に子どもファンが新日から軒並み卒業するという事態を招いたものだった。昭和の新日本プロレスでは暴動がよく起きていたし、当時のファンはそれだけ本気だったのだ。
TPGの横入りで両国に大暴動が起こった際、バックステージで首脳陣の様子を見ていたのは、当時まだ若手だった鈴木みのるだ。「KAMINOGE」vol.83(東邦出版)のインタビューにて、このときの猪木の言動をみのるが明かしている。
「控室でモメてるのを俺は目撃しているんだよ。坂口さんや藤波(辰巳)さんが『社長(猪木)が出ていって謝らないと収まらないですよ!』『なんで謝らないんですか!』って責めてたんだけど、猪木さんが『うるせえ! 俺が頭を下げたら誰も観に来なくなるぞ!』って。『出した結果がたとえ客が求めるものと違っても、それに対して謝ったら客に媚びなきゃいけなくなるぞ。だったら、テメーらが頭を下げてこい! 俺は頭を下げない!』っていう言い合いを見たんですよ」(鈴木)
このときの対応に関しては、猪木の言い分のほうが完全に正しい。
話を海賊男に戻すと、クロネコや蝶野以外に“中の人”になったレスラーは数多い。木村健吾や越中詩郎、馳浩などが海賊男を務めたと推測されている。ちなみに87年2月10日、フロリダに遠征中だった武藤敬司を襲った海賊男(初代!)の正体は猪木本人、というのがプロレス界に伝わる定説だ。