猪木史で欠かせない試合といえば、真っ先にモハメド・アリ戦が挙がる。

「1975年3月、アリはまだチャンピオンだったんです。そのとき、『東洋人で誰か俺に挑戦する奴はいないのか?』ってアリが言ったんです。それが猪木の耳に届き、猪木がアリのところに果たし状を持っていくんです」(勝俣)

 当初、アリはショー要素の強いアメリカンプロレス的な試合を想定していたが、猪木にそのつもりはなかった。ご存知の通り、この試合は完全リアルファイトで行われている。

 つまり、エキシビジョンを考えていたアリにMMA的な試合形式を飲まさせた猪木陣営の偉業なのだ。逆説的に考えると、この試合を受け入れたアリも凄い。余談だが、76年にパキスタンを遠征した猪木は、現地でだまし討ち的にリアルファイトを強制され、そこで完全勝利を収めている。「折ったぞー!」の台詞で有名なアクラム・ペールワン戦だ。

 話をアリ戦に戻すと、この試合を経たことにより猪木とアリの間に友情が芽生えた……と、日本のファンには伝えられている。

増田 「(この試合で)友情が芽生えて、アリが猪木に贈った曲が、その後に我々が聴く“イノキ ボンバイエ チャーンチャーチャーン♪”(『炎のファイター』)です」

古坂 「あれはもともと、『アリ・ボンバイエ』って曲だから」

「ボンバイエ」とは、一体なんなのか? リンガラ語で「やっちまえ」「ぶっ殺せ」という意味である。つまり、「イノキ ボンバイエ」は「猪木、ぶっ殺せ!」という意味なのだ。今や、我々の耳には「アリ ボンバイエ」はどこか間延びした響きに聴こえ、「イノキ ボンバイエ」のほうがしっくり聴こえてしまうのだから、不思議なものである。

 猪木が行う異種格闘技戦シリーズは「格闘技世界一決定戦」と銘打たれ、アリ戦や柔道金メダリストのウィリエム・ルスカ戦以降も続いていった。

「格闘技世界一決定戦は凡戦と言われるような試合もあるんですよ。その中でも、実は『噛み合ってすごい熱いぞ』という試合があって」(ケンコバ)

 ケンコバが挙げたのは、プロ空手世界ヘビー級王者として名を馳せた、ザ・モンスターマンとの一戦(77年)だ。日本正武館の鈴木正文館長がレフェリーを務めたこの試合を、“格闘技世界一決定戦のベストバウト”に挙げる人は少なくない。フィニッシュホールドは、今ではパワーボムと呼ばれているテーズ式パイルドライバーであった。

「猪木さんが『自分が1番強い』と証明するために始めた異種格闘技戦だけど、いろんな人とやるようになっちゃって、ついには『小錦とやる!』と言い出して。でも、小錦さんが出ないとなったから小錦のお兄さんとやって」(有田)

 有田が言っているのは、84年に行われたアノアロ・アティサノエ戦のことである。アティサノエの存在を現代(?)に例えるとすれば、朝青龍の兄、ドルゴルスレン・スミヤバザルのようなものだろうか。

 ちなみに筆者が最も好きな格闘技世界一決定戦は、猪木が“熊殺し”と呼ばれた空手家、ウィリー・ウィリアムスと闘った伝説の一戦だ。

 新日本プロレス黄金期は、多くの外国人レスラーも猪木のライバルを務めた。その中には、「身長:223cm、体重:236kg(全盛時)」というサイズを誇るアンドレ・ザ・ジャイアントがいた。歯の数が42本にまで達していた(一般的な本数より10本多い)、正真正銘の“大巨人”である。
 
 今回、有田は86年に行われた「猪木-アンドレ戦」を紹介している。当時、猪木の髪はなぜか坊主頭だった。

「猪木さんは丸坊主なんかしないんですよ。実はですね、写真週刊誌に撮られたんです(苦笑)。普通、写真を撮られたら記者会見で謝ったり、謹慎とかするじゃないですか? でも、猪木さんはすぐに丸坊主にして試合に出てきたんです」(有田)

 激写された猪木。当時といえば、まさに倍賞美津子と結婚していた時期だ。“男のケジメ”で髪を切った猪木は、坊主頭でアンドレ戦に臨んだのだ。その姿を見た古舘伊知郎の実況がキレキレである。

「頭を丸めておりますので、レイのような花飾りを首から掛けますと、まさに“闘う修行僧”!」(古舘)

 一方のアンドレに対しては、“一人民族大移動”というフレーズを連呼していた古舘。さらに、アンドレの存在を煽る以下の名調子も有名だ。

「1人と言うにはあまりにも巨大すぎ、2人と言うには人口の辻褄が合わない!」(古舘)

 いじりすぎのきらいはあるものの、さすが古舘である。この頃、彼は本当に輝いていた。今回の猪木特集には古舘も出したほうがよかった気がするが、出たら出たで悪癖が表れ、独演会になってしまっただろうか?

 話をアンドレ戦に戻すと、長身のアンドレに延髄斬りを決めるなど、猪木の攻めはとても逆境にいる人間と思えなかった。ついには、“巨人殺し”の切り札・腕固めでアンドレからギブアップを奪う快挙を成し遂げたのだ。「スキャンダル→丸坊主→大巨人からギブアップ勝ち」という流れは、大局的に見て、まさに猪木の言うところの「風車の理論」だ。

 続いて紹介されたのは、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンとの試合。「腕折り事件」で有名な、74年の伝説の一戦だ。

「猪木は外国人レスラーを扱うのが世界で1番うまいと思うんですよ。外国人レスラーと闘うだけだったら、誰でもできますよ? スターにしちゃうんです」(古坂)

 これは、どういう意味か? 新日に招聘される以前、主戦場であるカナダでベビーフェイス(善玉役)を務めていたシン。そんなレスラーを“インドの狂虎”に変身させたのは、猪木による手腕だ。来日前、ナイフを咥えるシンの宣材写真を見た猪木は、以下のようにダメ出ししたという。

「シンは最初、小さなナイフを咥えていたから“つまらねぇ”と言って、サーベルを持たせた。これは感性。ふと思いついた」(生前の猪木のコメント)

 力道山から引き継いだコネクションを元に、旗揚げ当初から有名外国人レスラーを招聘できた、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス。一方、脆弱な外国人ルートしか持たなかった猪木。彼には、無名外国人レスラーを自前でスターにするしか道がなかったのだ。要するに、シンは猪木のおかげで一流レスラーになった。

 プライベートで妻・倍賞美津子と買い物を楽しむ猪木を突如襲った「新宿伊勢丹前襲撃事件」など、名実ともに“狂える虎”になっていったシン。それらの凶行で猪木の怒りは沸点に達し、試合中に猪木がシンの右腕を折る「腕折り事件」へと発展したのだ。

 タイガー・ジェット・シンは現在78歳。今さら、シンについてネタバレも何もないと思うが、東日本大震災が起こった後、彼は母国で募金活動やチャリティプロレス興行を続け、数度にわたって日本に寄付をしている。カナダの名士であり、紳士な人格者。それが、シンの素顔だ。

 猪木-シンの抗争のピークが過ぎた頃、新たに台頭してきたのは“ブレーキの壊れたダンプカー”の異名を誇る、若き日のスタン・ハンセンだった。シン同様、日本で成り上がったハンセンも“猪木の作品”だ。ハンセンのブレイクについては過去に別媒体(「エキサイトレビュー」2016年6月17日)で筆者が詳細を書いているので、そちらを参照していただきたい。