◆“別にいらない部分”の大切さ
佐野:例えば新聞記者の笹岡まゆみ(池津祥子)は毎回とっ散らかった登場の仕方をするんですが、ああいうシーンはストーリーを追うだけなら別にいらないんですよ。でも、台本の尺が長くてどこかをカットしなきゃいけないとき、情報を伝える部分以外のキャラクターの表現部分をカットしようとすると、あやさんにすごく抵抗されるんですね。「役割のために存在させたくないから、だったら情報のほうをもっと整理して台詞を切ろう」と言う。
そういうところが、あやさんが他の作家さんとは違うところだと思うので、そこを大事に作っていきました。
◆自分の価値を決める基準を外に求めている限り、苦しいまま
――セクハラ、パワハラを受ける人も、わかりやすく「被害者」として描くのではなく、同時にほかの側面では加害者としての罪悪感も抱えています。そうした描き方にはどんな意図があったんでしょうか。
佐野:最初の依頼時から紆余曲折の末、あやさんに私が本当に興味のあるものをテーマにしたほうが良いと言われて、その時熱心に読んでいた、ある冤罪事件のルポを渡したんですね。そこであやさんが、実際に私たちが生きる社会に存在する冤罪事件のことを色々知って、その時の驚きを、エンターテイメントという間口の広いもので伝えたいという思いがまずありました。
あとは、最初に私が書いた企画書にあった「価値がないとされた人たちが、価値を自分の中に再発見していく」「自分の価値は自分で決める」「価値なきものとされた者の逆襲劇」みたいなコピーですね。
あやさんと台本を作るまでの対話の中で、「自分の価値を決める基準を外に求めている限り、苦しいままだよ」と言われたことがあるんです。私自身、大きな企業にいてドラマ作りという難しい仕事に携わる中で、「組織の中で認められなきゃいけない」みたいに、自分の価値を決めるのが他人になっていることを指摘されて。