会議で空気をつくる

慶長5年(1600)6月、家康は「神指原(こうざしはら)に城を築くなど、謀反の準備をしている」として会津の上杉景勝討伐の号令を発した。これに対し三成らは毛利輝元を主将として家康討伐の兵を挙げる。関東でこの報せを受けた家康は諸大名に「どちらに味方してもよい」と判断をゆだね、正則の主唱で家康加担に決する(東軍)と、家康は反転して三成ら西軍を攻めることを決意した。有名な「小山(おやま)会議」である。

この会議について少し述べておこう。三成は秀頼を担ぎ、毛利輝元・宇喜多秀家らが加担。豊臣家の公的な戦いと宣言したため、諸大名の部下たちは「主人々々はいずれへ御付き成(な)され候哉(そうろうか)、何卒(なにとぞ)大坂へ御付きあれかし」と、「過半大坂方の心持ちに成り申し侯」という状況だった(『平尾氏創記』)。

こういう空気のなかでは、人は皆臆病で慎重になり、様子見を決め込もうとする。そこで家康はまず反・三成の強硬派である正則に口を開かせ、会議の空気を一挙に家康支持・三成打倒へ持っていったのだった。会議の戦略としてのよいお手本である。

会議が決着すると、家康は正則らを西へ先行させ、自分は江戸に戻って諸大名へ書状を出しまくる。少しでも味方を増やし、結束を固めるための地道な作業だ。現代でいうとダイレクトメール作戦といったところだが、テレビも新聞もない時代、情報を得る手段として手紙ほど貴重なものはない。それを多く出せば出すほど、情報を求める者たちはより一層それを心待ちにし、その情報にすがるようになるのだ。

対する三成は、信濃国(現在の長野県ほか)上田の真田昌幸(さなだまさゆき)に連絡して会津の上杉氏との連絡を保とうと動いていた。このラインがうまく機能している限り、家康は包囲網の中に取り込まれ身動きがとりにくくなるからだ。家康は上杉氏の東を脅かす伊達政宗と連携するなど、上杉氏のリスクをなくすことでこの危険性を回避する。

そして8月23日、正則らが岐阜城を攻め落とした。その報告を受けた家康も、潮時とばかり江戸を発する。家康が大垣城をにらむ美濃国(現在の岐阜県の南部)の赤坂へ到着した9月14日、大垣城にいた三成らは関ヶ原に移動した。低湿地にある大垣城が水攻めされる噂に影響されたとも、一気に大坂へ進むという東軍のニセ情報に惑わされたとも考えられる。秀忠(家康の子)隊3万8000は上田で真田昌幸に食い止められて遅れ、また西軍の立花宗茂ら1万5000も近江国(現在の滋賀県)大津城攻めの最中で、美濃には到着できていない。

9月15日未明、関ヶ原に東西両軍16万弱の軍勢が集結する。東軍は7万4000。8万4000の西軍に対し不利で、当初は奮戦する宇喜多隊などに押されるなど苦戦したが、松尾山に陣取っていた小早川秀秋(こばやかわひであき)、その山麓に布陣していた脇坂安治(わきざかやすはる)・朽木元綱(くつきもとつな)らが次々に寝返ると、包囲された大谷吉継(おおたによしつぐ)隊がまず全滅。続いて各部隊が次々に潰乱し、戦いは正午ころに終結した。戦場から落ち延びた三成は後日捕縛され、京で処刑されることになる。

この戦いに先立ち、三成は薩摩国(現在の鹿児島県)の大名・島津義弘(しまづよしひろ)が赤坂の家康本陣の夜襲を提案したのを却下したという(『黒田家譜』)。このため、義弘は関ヶ原決戦ではまともに戦おうとはせず、危険な正面突破という有名な退却戦「島津の退(の)き口」で個人的な武勇だけをアピールした。戦場の東の入口・南宮山(なんぐうさん)に布陣していた毛利秀元(ひでもと)軍も重臣・吉川広家(きっかわひろいえ)の方針によってまったく戦うことなく終わったが、彼らが一致団結して東軍に立ち向かっていれば、戦いはまったく逆の結果に終わった可能性は高い。三成への信頼度の低さが、勝敗に直結したのだ。

三成はどちらかといえば文官であり、将を信頼して全てを任せ、口出しすべきではなかった。

筆者は三成にかつて平治の乱で命を落とした信西の面影を感じる。ともに抜群の切れ者で、合理主義的で、対立者と融和せず、独裁者の下で専権をふるったものの、孤立したあげく敗死した。時代の変わり目にはこういうタイプの人間が天から狂言回し役を割り振られるのだろうか。この関ヶ原の戦いを境に、豊臣家の力はまったく衰え、家康が天下人として新たな時代、近世を築いていくことになる。合戦における戦略の視点で見てきた古代からの日本史も、ここで一旦筆を措くこととしたい。

提供・ANA Financial Journal

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