原作からの改変で強まった「疎外感」という共通項

坂口健太郎に「惚れてまうやろ!」と叫びたい。単なる余命宣告モノじゃない『余命10年』
(画像=『女子SPA!』より引用)

主人公は病気のために大学を中退して、今は仕事をしていない無職の女性である。「その社会からの疎外感」が青年と共通していることは、彼らが参加する同窓会のシーンでの「はぐれものっぽさ」からもわかるはずだ。

 ちなみに、原作での青年は茶道の家元の息子であることのプレッシャーに悩み、「決められた長い人生を背負った」苦しみが、余命10年の主人公との対比として描かれていた。その設定は映画ではほぼなくなり、青年はまったく違う道を歩み始めることになる。

 この大胆な改変は原作ファンからの賛否両論がありそうだが、映画では青年の自殺未遂を基軸とし、前述した対比だけでなく「社会でうまく生きられない疎外感」という共通項を強く想起させるため、筆者は大いに肯定したい。

 原作と印象の異なる青年になったことについて、藤井道人監督は「自分が20代の頃、やりたいことが何も見つけられなくて東京で浮遊していたとしたら、どうなっていたんだろう?みたいな発想から映画の彼は生まれている」と、自身を投影した想いを語っている。

(自ら死を選びたいと思うほどに深刻な悩みを持つが)どこにでもいる青年としての普遍性を担保する、そのための改変だったと言えるだろう。

 また、原作では友人たちとのオタク活動がとても楽しそうだったり、他にも映画と共通するも微妙に異なる心情も描かれていたりするので、映画を観たあとに読むと「アナザーストーリー」としての面白みも得られるだろう。特に、小学校でのエピソードは、映画でも少しだけ語られた「過去」を補完する重要なものなので、ぜひ確認してほしい。

監督が余命宣告ものへの見方を変えた理由

 いわゆる「余命宣告もの」は「泣ける」作品の定番とも言えるが、実際はとても難しいジャンルであると思う。現実に当事者もいるセンシティブなテーマなだけに、下手に作ってしまうと死を美化するような不快さが現出してしまったり、ウェットになりすぎて「お涙ちょうだい」な鼻持ちならなさを感じてしまいかねないと思うからだ。

 藤井監督も、余命宣告ものや恋愛映画に対して、ある種の抵抗があったという。それは「物語の流れや感情の落とし所があらかじめ決まっているような作り方」に疑問を持っていたからだという。

 しかし、藤井監督は原作を読んで、その見方を変えた。実は、原作小説の作者である小坂流加は実際に難病を患い、逝去している。文庫版に収録されている、闘病中に加筆された部分の生々しさを目の当たりにした藤井監督は「本当に書きたかったことに対する執着みたいなものを感じられた」「単にこの小説を実写化するのではなく、小坂さんが生きた証を刻みつつ、ドキュメンタリーとフィクションの融合みたいなところに挑戦したい」と考えたという。

 恋愛を主軸とした物語はフィクションであっても、実際に死に至る病の苦しみを経験した作者だからこその説得力がある。その原作の力を感じたからこそ、ドキュメンタリックな要素も交えた劇映画を作ろうとした監督およびスタッフの想いは、間違いなく作品に結実していた。