背景には行政による支援拡大も
全国こども食堂支援センターむすびえ調べ
東京・北区で子ども食堂のネットワーク連携を担っている「北区子ども食堂ネットワーク」の担当者も次にように話す。
「北区は歳末たすけあい募金を始めとした募金額が23区の中でも上位に入る市民活動が活発な地域。区内にある約30箇所の子ども食堂も市民活動の中から生まれたもの。運営者には仕事で忙しい身にある方も多いので、円滑な運営や情報共有、寄付の配分、啓発活動などを担う組織として、’17年に食堂運営団体と社会福祉協議会で当ネットワークを発足させたのです」
地域住民の自発的な取り組みが、連鎖反応を起こして広がった格好だ。背景には行政による支援拡大もあった。沖縄県子ども未来政策課担当者が話す。
「’16年に県内の子どもの貧困率が全国ワーストの29.9%であると公表されたことが、子ども食堂の支援を本格化する契機となりました。‘13年に成立した子どもの貧困対策推進法に基づき、沖縄独自の貧困対策計画を策定。‘18年には『沖縄県子供の居場所ネットワーク』を設立し、加入団体に対する各種助成金等の情報提供のほか、企業等からの寄付を送り届ける体制づくりも進めてきました」
結果、沖縄県内の食堂は3年で1.5倍増の240箇所以上に。国・自治体による支援の拡充が、各地の食堂増加に一役買ったかたちだ。だが、当初の子ども食堂はごく私的な活動にすぎなかった。
10年続く、ある親子との付き合いで見えた希望
「地元の小学校教員から、『給食以外の食事は朝晩バナナだけという子がいる』と聞いて衝撃を受けたんです。その子のために何かできることがないかと考えたことが食堂を始めるきっかけでした」
こう話すのは八百屋を改装して東京・大田区で「だんだん子ども食堂」を‘12年に開店した近藤博子氏。「子ども食堂」の名付け親とされる人物だ。
今年は食堂を通じた子ども支援が始まって10年という節目の年でもあるのだが、その始まりは一人の小学生を支援したいという思いにすぎなかったのだ。
「気まぐれ八百屋だんだん こども食堂」を運営する近藤氏。毎週木曜日夕方に開店していたが、現在はお弁当に切り替えて運営中
「もともと居酒屋だった場所で八百屋をやっていたので、野菜も米も調味料も揃っていて厨房もある。それなら食事をつくってあげようと。ただ、準備している間にその子は児童養護施設に入所して転校してしまった。すぐに始めなかった自分に対する怒りと、同じような境遇の子どもたちは絶対支えようという気持ちから、見切り発車で’12年に始めたのです」
だんだん子ども食堂は毎週木曜日に300円でお腹いっぱい食べられる食堂としてスタート。食材支援の輪が広がった’15年以降はワンコインに値下げして食事の提供を続け、毎回0歳児から高校生まで40~50人の子どもたちが集まる場になったという。
コロナ禍では開催が困難になったが、お弁当の配達に切り替えて食堂を継続してきた。近藤氏が休まず食事を作り続けられたのは、子どもたちの成長を目の当たりにしたからだ。
「ある障がいを持つ子どもとお母さんと10年のお付き合いになるのですが、そのお母さんは心の病を患っていたのに、食堂に来るようになって少しずつ元気になっていきました。今ではお子さんは就職して、お母さんはボランティア活動に参加しているほど。その親子を見てきて、心底『この場所をつくってよかった』と感じた」