1.【展示室A】1945年8月9日
展示室はA〜Dの4つに分かれています。
入場すると最初に現れるのが、展示室Aです。入口にあるのは、長崎に原爆が投下された運命の時「11時2分」の位置で針が止まった柱時計のモニュメント。永遠に動かなくなった時計から、カチコチ時を刻む音が聞こえてきます。
モニュメントの先を進むと、被爆前の長崎を写した写真パネルが並びます。長崎はかつて外交貿易で栄えた港町。日本でいちばん国際色豊かだったこの街に暮らす人々の笑顔、平和な日常を見ることができます。
コーナーを曲がると一転、ショッキングな映像が目に飛び込んできました。Bー29「ボックス・カー号」が、高度9,600mの上空から世界で2つ目の原子爆弾を長崎に投下。その瞬間を映し出したシーンです。強烈な勢いで巨大なきのこ雲が立ち上り、街全体がみるみるうちに白い灰と粉塵に覆われていったのです。
当時、長崎には約24万人が暮らしていましたが、1945年12月末の推計によると原爆による死者は73,884人、重軽傷者は74,909人。人口の半数以上が死傷者となり、生き残った者も原爆症におかされ、今もその傷が癒えず苦しみ続ける人がいます。
2.【展示室B】原爆による被害の実相
展示室Aが終わると、次は展示室B。長崎原爆資料館の主要展示物が並ぶコーナーです。全部で10のテーマに分かれ、原子爆弾の被害をあらゆる角度から検証、解説しています。
B-1原子野と化した長崎の街~B-2浦上天主堂の惨状
展示室Bに入ってすぐのところにあるのが「旧制瓊浦中学校の貯水タンク」。鉄骨の脚の部分がいとも簡単にねじ曲がっています。これ、本物なんです。
爆心地から約800mの位置に立っていた遺構で、最大秒速約200mの爆風と高温の熱線を受けて、脚が飴のように変形したのです。もとの高さは6mを超えるものでした。
双塔に鐘楼ドームを掲げ、東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂も被爆しました。こちらは、当時の写真をもとにした側壁の実物大再現造型。モノクロの記録映像に映し出された原子野の風景とシンクロし、当時の恐怖がリアリティをもって感じられます。
このとき告解(神に赦しを請う)のために集まっていた神父2人と信徒数十人は、建物の下敷きになって全員死亡。あまりにも理不尽な死を思うと、戦争の罪深さにあらためて気づかされます。
爆心地から約600m、民家の焼け跡から発見された溶けたロザリオ。被爆40周年を機に被災者家族から寄贈されたものです。
B-3長崎原爆投下までの経過
このコーナーは、長崎に原爆が投下されるまでに起こったできごとを年表と写真で解説しています。
写真は米軍機が長崎市内にまいたビラ。原爆の威力や市民への退避の呼びかけ、戦争中止の勧告などが書かれています。しかし、ビラがまかれたのは原爆投下後だったとの証言もあり、真実は明らかにされていません。
高さ3.25m、直径1.52m、ぽってり太っちょの形状から通称「ファットマン」。この爆弾こそ、長崎の街を一瞬にして地獄絵と化した長崎型原爆の実物大模型です。
B-4被爆した長崎の街
原爆による火球、熱線、爆風など面的な被害の広がりを、長崎市街のジオラマを使って解説しています。 長崎には広島を壊滅させたウラン235弾よりさらに大きな約1.5倍の破壊力をもったプルトニウム弾が投下されたこと。山々に囲まれた長崎の地形が熱線や爆風を遮断し、広島よりも被害が少なかったこと。広島に投下された原爆と比較しながら、原爆の威力を知ることができます。
また、立体模型に映像を投影しながらの説明で、俯瞰から被爆した街全体の当時の状況もわかります。
B-5~7熱線・爆風・放射能による被害
原子爆弾が放出したエネルギーは爆風50%、 熱線35%、放射能15%と考えられています。こちらのコーナーでは、現存する展示品から原子爆弾の威力を実感できます。
高熱で溶けたガラス瓶や爆風の猛烈な圧力で破損した石柱、ほかにもコンクリートが吹き飛んだ写真、ズタズタに破れた衣服などを展示。強大な原爆のエネルギーが、どのような被害を及ぼし、破壊したのかがわかります。
爆心地から100mの地点で発見された被爆瓦。表面のふつふつとした凹凸は沸騰して泡立った痕跡です。
原子爆弾の炸裂は瞬間的に数百万℃の高熱になり、1秒後に直径約280mの火球を生みました。火球から放出された大量の熱線は爆心地で3,000℃から4,000℃にのぼったといいます。
異常なまでの熱線は人間にも浴びせられ、爆心地付近では身体が炭化しました。
中央の写真は爆心地から南へ約4.4kmの要塞司令部の板壁です。はしごと兵士のシルエットがくっきりと写し出されています。色が薄い部分は強烈な熱線を受けて塗料が溶け落ちたところ。
まさにこっぱみじん。爆発によってまわりの空気は膨張し、想像を絶する圧力の爆風が起こりました。あらゆるものは瞬時に吹き飛ばされ、人体には無数のガラスや木片が突き刺さりました。
上段中央の写真は、今もそのままの姿で残る「山王神社の一本柱鳥居」。
原爆の放射線は目に見えないからこそ、多くの被爆者を恐怖のどん底に陥れました。
ケロイド、白血病、がん、母胎が放射線の影響を受けたことによる体内被曝、戦後75年以上経った今も、さまざまな放射線障害に苦しむ人がいます。
B-8救援・救護活動~B-9永井隆博士
次のコーナーでは、原爆投下後の医療、救護活動に関する資料を展示しています。なかでも、多くの人が足を止めるのが長崎医科大学付属医院の助教授だった永井隆博士に関する展示。
永井博士は自ら被爆し重傷を負いながらも救護活動に携わり、白血病に伏したのちも執筆活動を通して、長崎の復興と平和への願いを訴え続けました。
敬虔なクリスチャンだった博士の妻のロザリオの鎖や、執筆活動に使った文房具、顕微鏡などの遺品を展示しています。
B-10被爆者の訴え
展示室Bの最後は「被爆者の訴え」をテーマにしたコーナー。生き残った被爆者や遺族たちの手記や証言ビデオ、絵画や書籍などを通して、戦争の愚かさと原爆の恐怖、平和の尊さを今も訴え続けています。11mにおよぶ絵巻『崎陽のあらし』(深水経孝画)は、原爆が投下された日から3日間の様子を描いた超大作。 ※証言ビデオは、2021年2月現在、新型コロナ感染症防止対策のため休止中です。