今回のレッスンでは会話文の訳しかたを検討していきましょう。
まず簡単な例から見てみましょう。
“Who’s there?”
“It’s me.”
この会話文の場合、これだけでは”It’s me.”といったのが男性か女性かわからないのはもちろん、何歳くらいの人かもわかりません。ですから可能性として何通りもの訳し方が可能です。
具体的には「私だ」「俺だ」「私です」「ぼくだよ」・・・といくつもの訳が可能です。
このように会話を訳すときは性別や年齢、上下関係によって訳しかたを変える必要があります。
次の例を見てみましょう。これはある弁護士がカウンセラーにむかって話しているシーンです。
A thirty-five-year lawyer said, “I’m not really a lawyer. I’m just a little boy.”
直訳:ある35歳の法律家はいった。「私は本当は法律家ではありません。私はただの小さな少年です」
この訳ではぎこちなさが残っています。この訳文では、読者は「法律家ではなくて小さな少年」というのは、いったいどういう意味なのだろうかと考えなくてはならなくなります。
この場合、この35歳の男性がいっている ”I’m just a little boy.”は「私は精神的にはまだ子どもなんですよ」という意味です。ですから「少年」と訳してはおかしくなります。「少年」を「子ども」に修正してみましょう。
修正訳:ある35歳の法律家はいった。「私は本当は法律家ではありません。私はただの子どもです」
ふたつ目の「私」は省略したほうが自然です。また「法律家」は必ずしも弁護士とは限りませんが、もしも文脈から弁護士であることがわかっている場合は「法律家」を「弁護士」と変えてもいいでしょう。日本語での会話では「法律家」というより「弁護士」とか「裁判官」などという言葉のほうがよく使われるからです。
宮崎訳:ある35歳の弁護士はいった。「私は本当は弁護士なんかじゃないんです。ただの子どもにすぎないんです」
次は台詞の中の you の訳し方を考えてみましょう。
日本語では、誰かと話しているときに、相手に向かって「あなた」ということはあまりありません。とくに相手が目上の人の場合、「あなた」というと失礼に当たるでしょう。相手が目上の人の場合、たいていは「○○さん」と相手の名字で呼びますし、職場の上司の場合は「社長」「部長」「課長」などと役職名で呼ぶのがふつうです。
日本語で「あなた」と呼ぶのは、女性が夫や恋人に対していうときくらいでしょう。
余談になりますが、日本では同じ名字の人を呼ぶのに苦労することがあります。私は以前、私と同じ宮崎という名字の編集者に担当してもらったことがあります。そのときは、自分が宮崎なのに相手に向かって「宮崎さん」と呼ぶこととなり、なんとも居心地の悪い感じがしたものです。ちなみにその編集者も私のことを「宮崎さん」と呼んでいました(笑)。
本題に戻りましょう。英語の場合、相手が年上だろうが社長だろうが、youを使います。そこで問題になるのが、年齢が上の人に向かっていったyouを日本語に訳す場合です。
例えば、小さな子どもが腹を立ててお母さんに次のようにいったとしましょう。
I hate you.
これを「私はあなたを憎んでいます」と訳すといかにも恐ろしい訳文になっていまいます。
このケースでは、お母さんに向かっていっているのですから、日本語ではさしずめ、「お母さんなんて大嫌い」くらいでしょうか。
このように英語の you を訳す場合は、時と場合によっては「あなた」以外にも「先生」「お前」「○○さん」「○○くん」「お父さん」「お母さん」などと使い分けなければならないのです。
次の例を見てみましょう。
アメリカの映画などで妻が夫に向かって darling といっているのを聞いたことがある人も多いでしょう。この darling は「かわいい人」とか「最愛の人」とか「お気に入り」という意味ですが、これは呼びかけの言葉ですから、Helo,darling. を「こんにちは、最愛の人」と訳す必要はありません。
ほかの例を見てみましょう。
“How much do you want for it?”
“Can’t sell that, mate.”
直訳:「それ、いくらなら売ってくれる?」
「これは売れないね、友達」
この場合、2行目の最後の mate が呼びかけの言葉です。
mate の意味は「友達」ですが、この文脈で「友達」と訳すのは日本語として不自然です。
日本語ではこういう場合、どのように相手を呼ぶかを考えてみましょう。
じつは日本語には呼びかけの言葉そのものがあまりありません。客の場合は「お客さん」ということもありますが、あとは「社長」「部長」などの役職名でいうことはあっても、夫に向かって「最愛の人」などという呼びかけの言葉を使うことはありません。ましてや友達にむかって「友達」ということもありません。
そこで考えられる一つの方法は呼びかけの言葉を省略することです。
修正訳:「それ、いくらなら売ってくれる?」
「これは売れないね」
しかし、もう一度考えてみましょう。日本で呼びかけるとき、たいていは相手の名前を使います。相手の名前を使ってみましょう。たとえば相手が「宮崎さん」であれば、次のようになるでしょう。
宮崎訳:「それ、いくらなら売ってくれる?」
「これは売れないね、宮崎さん」
例で見てきたとおり、会話文を訳すときは日本語の会話としてどう訳すと自然かを考えながら訳すといいでしょう。
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