このシーン、結局、結さんの工夫は具体的に語られることなく、ばあば(宮崎美子)の「えらかねえ、結」の一言で片づけられます。

「えらかねえ、結」「結のおかげね」「米田さん、お手柄よ」

 こうした主人公への賛辞は全部きっと、脚本家が吐き出したエラーコードなんだよな。

 第101回、振り返りましょう。

パパとじいじの確執なわけですが

 むしろ松平健と北村有起哉がいきなり現れて、「不仲の親子」というテーマの即興芝居を始めたと思ったほうが、まだ見られるものなんだと思うんです。その中で「大学の学費を父が使い込んだ」という設定が入って、「それがこういう理由だった」とだけ明かされれば、感動したかもしれない。

 感動を期待するには、私たちはこの親子について知りすぎているんです。何も知らないということを知りすぎている。断片的であべこべな情報によって、あらゆる想像力を阻害されている。だから、この2人が人間に見えない。

 息子が18歳のときに決裂した親子が、そのままずっと会っていなかったのならまだわかる。息子がガンになり、それを機に数十年来の再会を果たし、それでもやっぱりケンカをしてしまうのなら、まだわかるんだ。

 実際にはガンになったことをじいじとばあばに伝えたのは愛子(麻生久美子)らしいし、それを聞いた祖父母がどうリアクションしたのかもわからない。退院からこの日までの1か月間、年末年始も挟んでいるけれど、この家族にどのような交流があったのかもわからない。

「2人は、お父さんが心配で来てくれたと?」

 どういう親子関係だと、こんな質問が出てくるんでしょう。なんでパパは病床で「糸島に行きたい」と考えたのでしょう。実に綿密に、私たちが「パパとじいじの親子像」を想像することを拒んでくるような、あえて情報を錯綜させているかのような、松平健と北村有起哉の親子関係はそういう描かれ方をしているんです。ほかの家族たちもそうです。じいじは花ちゃんと初対面ではないようだけど、サッカーやってたことは知らなかった。どういうことなのか。