ここで価値を置きたいのは、「人々がマスコミを批判する」という行為が維持されている状態そのものです。

 不特定多数の人々に情報を発信する性質上、マスコミはより良い社会を実現することに寄与する責任があります。しかし、「より良い社会」がどんなものか単一の答えがないように、「正しいマスコミの在り方」というのも非常に曖昧なものです。だからこそ、マスコミがその時々に広く共有される規範を逸脱したら批判が起こるのが自然ですし、マスコミはそれに応じて変わり続けていかなければならない。こうした交互作用がない社会が行き着く先のひとつの形が、独裁国家や太平洋戦争末期の日本です。

 ただ、このような整理を経て先述の『めざまし8』への批判を眺めると、気がかりなことがあります。「被害者感情を無視している」「横暴なマスコミは解体すべきだ」といった主張には正当性がありますし、正義感に駆られて書き込む人が多数派だと思われます。しかしこうしたマスコミ批判の言説は、少なくともマスゴミという言葉が一般化した20世紀末以来、ほとんど変わっていないのです。

 これを踏まえると、新たな問いが生まれます。ここまで筆者は「マスゴミ批判」「番組への批判」などと、意識して「批判」という言葉を使ってきました。そうした用法が一般的であるためです。しかし、インターネットなどに溢れるマスコミへの苦言はそもそも「批判(criticism)」なのでしょうか。

 クリティカル・シンキング(批判的思考)という言葉の含意がわかりやすい例ですが、批判とは、物事を精査し、考えを巡らせ、その良し悪しを判定することです。本来、そこには対象の問題点を明らかにし、改善につなげようとする建設的な姿勢が伴っています。現状のマスコミへの苦言を俯瞰すると、悪い点を責め立てること自体が目的化されている感があり、ならば「非難(condemnation)」という語をあてるのが適切であるように思われます。