マスコミ側としては「犠牲者の行動を明らかにすることで、人々が今後似たような凶行に遭遇するリスクを避けやすくする」といった社会的な意義を一応は掲げることができます。

 とはいえ、故人のプライバシーを損なっているのは事実であり、憤りを覚える人がいるのも頷けます(ただし、先述の動画に寄せられたコメントのなかには、一次情報である『めざまし8』を視聴せずに書き込んでいると思われる、事実誤認を含んだものが散見されます。情報が歪曲しがちなまとめ動画や切り抜き記事をもとに批判することの是非は問われるべきですが、ここではひとまず傍におきます)。ましてやこの報道でテレビ局は利益を得ているわけですから、「マスゴミ」と蔑まれるのも無理からぬことでしょう。

 しかしここで一歩立ち止まり、マスコミはなぜ、いつ、マスゴミになってしまったのか、という問いを立てると興味深い事実が浮かんできます。

「マスゴミ批判」をアップデートするために

 マスゴミはインターネットミームとして広く知られるようになったため、比較的最近の言葉のように感じますが、1950年代にはすでに現在と同じ意味合いで用いられている事例があるのです。さらに言えば、19世紀末の米国では扇情的な新聞報道(イエロージャーナリズム)への批判が巻き起こりましたし、哲学の巨人フリードリヒ・ニーチェは毎朝届く新聞を揶揄して「早朝の嘔吐」と呼んだといいます。大衆(マス)に向けたメディア=マスコミの黎明期からマスコミ批判は繰り返されてきたのです。

 いわば、マスコミに不満を募らせ、批判をすることはマスコミと人々の交互作用(インタラクション)において必ず発生するもの。あえて皮肉めいた言い方をすれば、マスコミはその誕生から“マスゴミ”要素をはらんでいたのです。20世紀末、インターネットが普及した頃からマスコミへの批判や不信が目立ち始めたと述べましたが、それは個人が情報発信できるメディア環境が整ったことで、かねてから存在していた不満が見えやすくなっただけだと言えます。