アユが東北の震災のニュースを見て、中学生のときに体験した「最初の夜の恐怖」を思い出すことは自然だし、胸が詰まって情報を遮断する気持ちもわかる。そのうえで、自分の体験と重ねて「最初の夜の避難所」に思いを馳せるというのは、阪神・淡路大震災被災者が遠くで東北地震の報道に触れたときの心の動きとして、その「距離感」を描いてリアルな描写だったのかもしれないと思い直しました。
なんかごめんね。
なので今日は、その東北と関西の距離感というものを意識しながら見ましたよ。NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』第74回、振り返りましょう。
距離感とかじゃねーわ
距離感を意識してみると、わざわざ大阪のアパートまで「お礼」を言いに来たカスミン(平祐奈)は時間と交通費を無駄にしているなと思うし、栄養士として避難所でできることを見つけたわりには「今、被災者のためにできること」より「結へのお礼を言うこと」を優先していて、なんだかなーという感じです。それは半年後でいいよ。
そこでカスミンから語られたエピソードも、わざとやってるのかと思うくらい雑なものでした。
避難所のおじいちゃんはこの1か月、おむすびとカップラーメンしか食べていないという。それを聞いたカスミンは「炊き出しさせろ」と要望してホカホカのワカメおむすびとサバツナけんちん汁を作るわけですが、その精米と缶詰はどこから湧いて出てきたのでしょう。もともとあったならとっくに出してただろうし、栄養士じゃなくても「あったかいものを作ろう」という動きは自然発生しそうな気もしますが、あくまで「栄養士に手柄を振りたい」というドラマの下心が見えるところです。
そして、気仙沼は魚介が新鮮だから被災者も缶詰に拒否感があるという。気仙沼にいくつ魚介類の缶詰工場があるか知ってますか? 気仙沼に住む人だったら、むしろその缶詰が精魂込めて作られていることを知っていて、こういうときこそありがたいものであるという受け取り方をするほうが自然ではないですか? と思うわけです。「こんなときでも缶詰は食わねえ」という描写は、いかにも外の人間が「東北人は頑固」というステレオタイプを押し付けている感じがします。