メディアをコントロールしようと思えば、とにかく先手を取り続けなければならないわけだが、それは実質不可能だ。なぜならば、人の数だけ情報があり、どの情報を取り扱うかには、それぞれの打算や思惑が入り乱れているからだ。
大切なのは、分析からの教訓であり、失敗から多くを学んでいかなくてはならない。そしてうまくいったときには、その成果を誇示するような、自己顕示欲を発揮してはいけない。自身がやったことの痕跡すら残してはならないのだ。
少し愚痴をこぼしていいだろうか。マスメディアの体たらくに飽き飽きしているのだが、いつからジャーナリズムは、人を陥れることによって起きる論争を恥じらいも罪悪感の意識もなく報じることを仕事とするようになったのだ。木原だったら、鼻で笑っているだろうな。
「紙が売れへん? そりゃそうやんけ。お前らがつくる記事の質が、人間として失礼やからやんけ」と。
すまないが、過去の事案をほじくり返して、一方的な話に耳を傾けて、火をつけて燃やすことにジャーナリズムの大義はないぞ。
「情報は先手」であることを理解して物語、たとえばドラマのプロットを描くとき、「今」を描いていては遅すぎるのは当たり前だ。それがドラマ化され、放送されるタイミングに焦点を当てていないと、自分でフィクスさせることもできないし、読み手に受け入れられることもない。
特にリアリティが重要なクライム・サスペンスの世界では、古いということは致命的でしかない。色褪せた内容で戦えるほど甘くはない。
常日頃から世の中の動きを観察し、社会を切り取る角度を見定め、どこにフィーチャーすれば、数年後でも話題となって興味を惹かれるのかを考える。私はペンを握るときには、最低限、誰もがまだ見ていない場所、領域を見ている。
ーその数年先の世界に向けて、未解決事件をかければどうなっていくのだろうかー
そう考えたのだ。
私は未解決事件の本(『迷宮 迷宮 三大未解決事件と三つの怪事件』2020年発行)を出版しているので、未解決になった背景については、調べれば調べるほどわからなくなるという感覚を肌で知っている。捜査当局が、総力をあげて乗り出してわからないのだぞ。