韓国の憲法に「国軍は、国家の安全保障および国土防衛の神聖なる義務を遂行することを使命とし」(第5条)とあるように、国民を守るはずの軍が主権者である国民に向かって発砲することは、いわば「反逆罪」にあたる。それだけの判断を最前線のいち軍人や作戦本部が行うはずもなく、軍のトップだった全が命令を下したことは間違いないものの、全自身が否定し続けているのが現実だ。

 20日には軍の銃撃に対抗して市民も武装を始め、組織化して軍の撤退や民主化を要求する声明を発表する。しかし軍による統制で孤立状態に陥っていた光州の声が外部に届くことはなかった。

市民のほとんどが射殺され、犠牲者数も不明――行方不明者の捜索は今も

 映画ではピーターが20日に光州に入り、命がけで撮影したフィルムを持って21日に脱出するが、光州ではその後も全羅南道庁を拠点に、市民軍が戒厳軍に対して応戦し続けた。

 膠着状態を打開しようとした戒厳軍は、大勢の兵力に加えて戦車をも光州に送り込み、ついに27日、道庁で最後まで抵抗した市民軍はほとんどが射殺されて、光州事件は「北朝鮮に煽られたアカによる反乱」として終結した。

 この日に道庁ではどれだけの市民軍が殺害されたかも正確にはなっていないし、光州事件全体を通じての犠牲者数も不明のままだ。ピーター(実際はユルゲン・ヒンツペーター)が持ち出したフィルムによって事件の映像が報道され、韓国は国際社会から批判されるものの、言論統制によって当時国民が真実に触れることはなかった。

 韓国ではその後も長きにわたって、徹底して事件の真相を捏造する新軍部に対し、真相を究明しようとする闘いが続いた。そしてついに軍事政権の終焉とともに発足した金泳三(キム・ヨンサム)政権下の95年、光州事件を検証するための「5・18特別法」が成立した。

 光州事件は「5・18民主化運動」と正式に名付けられ、「アカによる反乱」などではなく「戒厳軍の鎮圧に対して、民主主義のために光州の学生・市民らが命をかけて立ち向かった歴史的事件」と定義されて、5月18日は光州民主化運動の国家指定記念日となった。