それでも、顕光は寛子のところに敦明親王が初めて通ってくる「渡り初めの儀」には参加しているんですね。一説に顕光は病床の娘・延子の髪を切り、寛子の呪詛に使ったといわれますし、道長の「太鼓持ち」を変わらずに演じながらも、道長を呪いだしたともいわれます。実際、史実の道長やその娘たちの天敵となったのが、顕光や延子の生霊でした。両者は死後でさえ道長たちに悪霊としてつきまとったことが知られます。
つまり、史実の道長が出家せざるをえなくなった理由は、藤原顕光や延子といった長年にわたってないがしろにしてきた人々の祟りゆえだったといっても過言ではありませんでした。
ちなみにさっさと出家した道長に対し、顕光は出家を拒み続けました。ようやく髪をおろすことになったのが、彼が78歳だった治安元年(1021年)、顕光が亡くなる直前のことです。
それから数年後、先に死んでいた延子と顕光が悪霊コンビを結成し、道長の周囲で暴れまわるようになりました。顕光と延子は道長の娘・寛子を襲い、絶命させたといわれます。さらに顕光と延子の悪霊は、敦良親王(後一条天皇の弟)に嫁ぎ、臨月だった嬉子(六女)にも襲いかかり、第一王子親王(後冷泉天皇)の出産2日後、呪い殺すことに成功しました。
妍子(次女・倉沢杏菜さん)や後一条天皇も顕光と延子の霊が殺したと囁かれますし、健康で長命だった彰子(長女)を例外に、多くの道長の関係者が顕光・延子の祟りに苦しめられたのでした。
こういう平安時代の「闇」の部分がまったく描かれなかったことも、本作『光る君へ』の印象が「きれいだけど、浅い」に留まった原因ではないか……と思うのです。
作中では、倫子に命じられた赤染衛門(凰稀かなめさん)が描くことになった道長の「栄華の物語」こと『栄花物語』で悪霊になったことはもちろん、その後も多くの書物で藤原顕光といえば「悪霊左大臣(『大鏡』)」、「悪霊左府(『宇治拾遺物語』)」などと語り継がれるヒール(悪役)となり、恐れられた存在なんですね。出演期間が長いわりに存在感が薄いドラマの藤原顕光というキャラからは、想像もつかないという方が多いのではないでしょうか……。