たとえば、顕光は大事な儀式をまともにこなすことができませんでした。一条天皇(塩野瑛久さん)の譲位儀式でも不手際があった顕光が「私が三条帝の譲位儀式もがんばります」とやる気を示すと、道長はどうせしくじると踏んで「あなたは前もやったから……」と言いました。しかし、「今回も私が!!」と顕光が強く言うので任せてみたところ、カンニングペーパーを懐に忍ばせ、それをチラチラ見ながらやっているのにミスだらけ。とうとう一同は我慢しきれず、笑い転げてしまったとか。道長は憎々しげに「至愚の又至愚(しぐのまたしぐ)」――最強のバカ者と顕光を嘲弄したそうです。『光る君へ』も、こういう貴族社会特有の陰湿な部分も描いていたほうが、よかったのではないでしょうか。
このように嘲笑われても、道長のご機嫌取りを長年続けざるをえなかった藤原顕光なのですが、ついに道長が左大臣の職を辞したので、顕光が右大臣から「繰り上げ当選」式に左大臣になれたとたん、道長の息子・頼通には「おまえの父親の代からの恨み」とばかりにイヤがらせをするようになったようです。
道長の近い親戚(道長の父・兼家と不仲だった兄が顕光の父・兼通)であり、高い血筋を誇る顕光は道長同様、娘たちを帝や有力な皇族たちに嫁がせていたのですが、それが華々しい成果につながることはありませんでした。
かつて三条天皇は譲位条件として、道長の外孫・敦成(あつひら)親王(石塚錬さん)が次の帝・後一条天皇になることを認める代わり、三条天皇の息子・敦明親王(阿佐辰美さん)を、東宮(皇太子)に据えることを命じました。顕光は敦明親王に娘の延子(山田愛奈さん)を嫁がせており、延子は皇子・皇女を授かっていました。年少の道長からバカにされながら、「ナンバー2」の座に甘んじてきた顕光にも東宮女御の父として、明るい未来が見え始めたという矢先、三条院が崩御します。
すると敦明親王は、東宮の座を返上すると言い出し、顕光を裏切って「道長派」に入ってしまったのです。道長はそんな敦明親王に、娘・寛子(道長の三女)を与えました。いきおい顕光の娘・延子は見向きもされなくなり、ショックのあまり寝込んで湯水さえ摂れなくなりました。