第41回では、会津征伐に向けて石田三成の三男を連れて行くとした吉継が佐和山城を訪れる場面がありました。三男の代わりに甲冑姿の三成が現れ、家康を討つと宣言すると、吉継は「無理だ!」などと反対しましたが、三成は吉継の茶碗に残った(感染の恐れのある)茶をグッと一息で飲み干して「うつして治る病なら私にうつせ!」と呼びかけることで仲間に引き入れていましたね。ドラマでは触れられてこなかった吉継と三成の友情の強さを、このシーンに凝縮して伝えるような演出でした。吉継は驚きながらも、「私と運命を共にしてほしい」という三成の意志の強さに気づくのです。

 このシーンには実は「元ネタ」があります。茶道では相互信頼の証しとして同じ茶碗の茶を出席者全員で分かち合うことがあるのですが、大坂城で開かれた茶会で病気の吉継が茶を飲もうと顔を傾けたとたん、膿が茶碗の中に垂れてしまい、それを見た一同が凍りつく中、三成だけが吉継から茶碗を受け取って嫌がらずに飲んだ……という、歴史好きには有名な逸話があるのです。もっとも、このややグロテスクな友情話は明治以降に創作されたものであり、当時はおろか、江戸時代の書物にも見られません。

 史実の吉継が長年にわたって体調不良であったことは、複数の同時代人の証言からも事実であることがわかっていますが、病名は不明ですし、どんな症状が出ていたかについても具体的にはわかりません。文禄3年(1594年)、吉継は直江兼続に書いた手紙の中で「目を患っている」と述べており、これだけが吉継の病状を伝える唯一の確実な情報のようです。『どうする家康』の吉継は「大病から復帰した」という設定で、少なくとも目だけは健康のようですが……。

 第41回で初登場だった大野治長(玉山鉄二さん)についても補足しておきましょう。ドラマでは、家康暗殺未遂計画はさらっと描かれるだけに終わりましたが、容疑者とされる3人が家康(松本潤さん)から処罰を言い渡される場面では、大野治長だけが納得のいかないような面持ちを見せ、それを見咎めた家康から「死罪を免じたのは我が温情と心得よ」と半ば脅されたことで、渋々頭を下げるという強気なキャラだったのには驚きました。史実の治長は優柔不断で、大坂の陣では、真田信繁の「討って出るべき」とする積極策を退け、最初から籠城作戦という消極策を主張したエピソードでも有名です。彼は乳きょうだいである茶々の言いなりという印象も強いのですが、ドラマオリジナルの設定が多そうな治長が今後どのように描かれていくのかには興味を惹かれました。