マスメディアが取るべき責任と補償

 当事者の会は、いつ発足されたのだ。今年5月である。そこで証言する人々の話はさらに何年も前のことで、喜多川氏への確認もしようもないことばかりだ。これは当事者の会の人々に限ったことではなく、人間というのは、意図的か否かにかかわらず、自身にとって都合のいいように話をしてしまうものだ。だからこそ、事実が歪曲していないかどうかを第三者的に検証するのが報道の役割なのではないか。それを放棄し、実際には当事者の会の声を利用して、ジャニーズを袋叩きにしているのが現状ではないか。繰り返すが、これまでジャニーズの恩恵を受けてきたマスメディア企業は、ともに責任を取り、補償に加わってもおかしくない立場なのだ。

 それなのに、どの口が言っているのだろうか。社名まで変え、解体的出直しをはかっているジャニーズのタレントですら、紅白歌合戦の出場を見合わせるとは。タレントに罪はない。そのタレントを愛するファンたちには、もっと罪はない。そんな人たちを傷つけることが、現在、メディア企業が取るべき対応ではないことは明らかだ。

 マスメディアが担う公益性とは、人々を困惑させて疲弊させ、激しい論争を繰り広げるためのものなのか。違うだろう。だが、結果どうだ。ジャニーズへのバッシング報道が大衆を焚き付け、ファンたちを傷つけるという結果を招いているではないか。

 組織という隠れ蓑の中で動いているので、マスメディアにかかわる個々人は罪悪感を感じないだろう。しかしこれが個人だったらどうだろうか。一方の言い分をもとに、これだけ社会に大きな影響力を与え、混乱を生じさせれば、精神面で押し潰されるはずだ。そして、そうならないために慎重を期した報道を行うはずだ。だが、マスメディアという組織は、その姿勢が希薄なのだ。