◆展示に対するポリシーのなさが透けて見えた対応
――公式サイトでは2024年2月8日に「『大吉原展』の開催につきまして」という声明文が発表されました。また、同日より展示の「みどころ」を紹介するページが閲覧できない状態になっています。
渡辺:そうですね。本来なら、吉原が文化の発信地であったという主張への指摘があったら、「いや、私たちはこういう理由で主張したいんです」って立ち位置や意図の説明をすべきなのに、内容を引っ込めてしまった。そこに、展示に対するポリシーのなさが透けて見えているように思います。
――公式サイトでは、「約250年続いた江戸吉原は、常に文化発信の中心地でもあった」とありますが、渡辺さんは吉原に文化が集まった理由をどう考えていますか?
渡辺:私は近世史への興味はそこまで強くないので、先行研究の受け売りにはなってしまいますが、やはりお金が集まったからということに尽きるのではないでしょうか。当時“江戸で1日1000両落ちるのは、河岸と吉原と歌舞伎”と謳われたように、吉原に経済的な賑わいがあったのは事実だと思うんです。
お金の集まるところに文化的なものが芽生えてくるのは、現代でも同じですよね。それで例えば、遊女が浮世絵で描かれたりとか、落語や浄瑠璃、歌舞伎の演目になったりとかして。遊郭や遊女のモチーフが日本の芸術や文化に大きな影響を与えてきたのは事実ではあると思います。
また、吉原の中の業者たちが自分たちの格式にこだわったことは間違いないと思います。ただそれは宣伝広告的な意味合いで、彼ら自身が文化の担い手という意識をどこまで持っていたかには、私は懐疑的です。
というのも、江戸時代の吉原も時期によっては8割以上は低級なお店だったから。“高級店だけが並び、政財界の人たちだけが集まって文化サロンを形成した”というイメージは実際とは違うと思います。しかも、江戸末期の吉原は客離れが起きていて、遊女の大安売りのチラシを配っていました。なので、江戸末期には格式とは全く別の方向に振っていたわけです。