結局、次の天皇は年少すぎる敦康親王でも、もちろん敦成親王でもなく、一条天皇のいとこにあたる居貞(おきさだ)親王(花山天皇の異母弟)が三条天皇(木村達成さん)として即位するということになりました。三条天皇は、道長の次女・妍子(倉沢杏菜さん)と結婚しているのですが、史実の道長は、三条天皇になるべく早く退位してもらいたい一心で、かなりキツい対応をしており、実の娘である妍子の心も傷つけています。ドラマの道長が、今後、どのように描かれていくのか注目ですね。

 ドラマの中ではあくまで正義漢として描かれ続けている道長ですが、史実の道長は自分の意に沿わぬ存在には徹底的に問題がある対応を繰り返したことで有名です。ドラマでも亡き皇后・定子(高畑充希さん)が産んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王が、義母である彰子に対し、独特の執着を見せている様子を見た道長は(『源氏物語』の光源氏と藤壺の宮の関係のように)何か危険なものを感じたのでしょうか、一刻も早く親王を彰子から遠ざけようと元服の日取りを画策するという描かれ方をしていました。

 また、そんな道長のことを、火事で伊周の屋敷に避難した敦康親王は「私を邪魔にしている(帝や中宮さまから遠ざけようとしている)」と不満に感じている様子でした。三条天皇と道長のように、敦康親王と道長も不仲だったのでしょうか?

 個人的には「なかなかに恐ろしい」と思われる所業を、道長は敦康親王にしています。

 一条天皇の崩御から3年後の長和3年(1014年)、道長は数え年16歳の敦康親王を自分の宇治の別荘でもてなしているんですね。このとき、40人もの遊女たちを招いたことが知られています(道長によると遊女たちが自発的に押しかけてきただけ、といいたいようですが)。当時の遊女には、現在でいう「夜職」の女性的な側面だけでなく、実家が没落したり、夫婦仲が悪かったりして、自分で稼がざるをえなくなった貴族女性がなる「フリーランスの女官」という側面までありました。つまり、宴会に遊女を呼ぶことには、彼女たちに歌や踊りを披露させる目的も(表向きは)あったのです。ところが、このときの道長は遊女たちが見せた芸に対する謝礼として、まずは自分の高価な装束を脱ぎ、それを褒美として渡すという当時の貴族男性特有の行動をして、それを敦康親王にも真似させているのですね。