同書によると、拷問のことは「拷訊(ごうじん)」または「拷掠(ごうりゃく)」と呼び、罪を犯した可能性が濃厚なのに、なかなか自白しない容疑者の拷問に使われる道具は「杖」でした。しかし長さ「三尺五寸(約106センチ)」、太さ「四部(約1,2センチ)」の杖ですから、木製のムチといってもよいでしょう。これで背中やお尻を叩くのですが、叩いてよい回数は1人につき200回まで、取り調べ回数は合計3回までというように意外なまでに細かい規定があるのです(『日本大百科全書』、「拷問」の項目)。

 ただ、天平宝字元年(757年)、ときの「女帝」である孝謙天皇に対する反逆罪で逮捕された橘奈良麻呂などの貴族たちには、鼻を削ぎ落とされたりする凄惨な拷問が加えられたとも伝わり(橘奈良麻呂の乱)、現在の刑法に相当する当時の「律」が必ずしも厳密に守られたとは限らないことはお察しのとおりです。天皇の皇子や中宮を呪詛した円能法師も相当に痛めつけられたのではないでしょうか。

 また、ドラマの中では伊周の完全失脚に伴い、道長が長男・頼通(渡邊圭祐さん)を呼び出し、彰子が産んだ第二皇子・敦成(あつひら)親王を東宮(=皇太子)にして、できるだけ早く天皇に即位いただくための計画を語ってきかせていました。伊周が後見していた、彼の甥の敦康親王(渡邉櫂さん→片岡千之助さん)は、一条天皇第一皇子なのですが、道長によると後ろ盾が弱い親王が天皇になると、臣下の間で権力争いがはじまって、逆に世の中が乱れるのでダメという理屈だったと思います。

 ネタバレになりそうですが、一条天皇(塩野瑛久さん)は寛弘8年(1011年)6月に崩御しておられます。数え年32歳の若さでした。ドラマの一条天皇はまだまだお元気そうですが、史実の一条天皇は体調がすぐれないことを理由に、何度も譲位を切り出していたにもかかわらず、道長がそれを認めなかったので、天皇の体調はさらに悪化したという経緯があります。道長にとっては自分の娘・彰子が産んだ敦成親王(第二皇子)を推したい気持ちはあっても、さすがにもう少し親王が成長してからでないと東宮にはできないという思惑があったのかもしれません。