――しかし、これは自分の可愛がっている部下たちの利益を優先した道長の「誇張」にすぎないようですね。藤原実資(秋山竜次さん)の日記『小右記』によると、興福寺が話し合いの場を設けようと当麻為頼を訪れたところ、為頼は貴重品を運び出した後の自邸に火を放ち、「興福寺にやられた!」とわめきたてたといいます。

 興福寺側としては、当麻為頼→源頼親→藤原道長という主従関係を把握しており、道長に強訴してでも、当麻為頼と源頼親のやりたい放題をやめさせたい一心だったのかもしれません。しかし先述の通り、道長は興福寺の言い分には一切耳を傾けず、自分の部下たちの利益だけを守ったのでした。その結果、興福寺からやってきた2000人の僧兵たちが報復として都で暴れまわるのですが、道長は役人を派遣し、彼らを追い出すことに成功しました。つまり、暴力をさらなる暴力によって鎮めたわけです。ドラマでは「血で血を洗う」乱世ではないという世界観のようですが、史実の平安時代は、すでに暴力による支配がまかり通る世の中でした。

 なぜ道長が源頼親(とその部下・当麻為頼)を熱心に守ったのかにも、文字通り「現金」な理由がありました。頼親と彼の兄・源頼光は献金の多さで知られていたからだと推察されます。ちなみに前回のドラマでは平維衡の人格を批判していた道長ですが、源頼親こそ血なまぐさい人物で、興福寺との諍いから約11年後の寛仁(かんにん)元年(1017年)3月には、平安京のとある邸を部下たちの手で襲わせ、邸内の男を皆殺しにする罪を犯して問題となりました。ちなみにこの時に頼親の部下たちから惨殺されたのが、清少納言の実兄・清原致信です。この時も道長は、『御堂関白記』の中で、頼親のことを「殺人上手」と評し、あきれてみせるだけでした。

 つまり史実では平安時代から、紛争解決の主な手段は「話し合い」ではなく「喧嘩」であり、腕力が強くなければ生き残れない世の中だったのでした。平安貴族の日常は、実はまったく優雅ではなかったのです。