しかしドラマの道長は毅然と定澄たちの要求をはねつけていました。史実の道長も寛弘3年(1006年)7月のある日、昼間は定澄から、そして深夜には慶理(渡部龍平さん)から脅迫を受けています。道長の日記『御堂関白記』によると、脅しの内容には道長の邸や、ドラマには未登場ですが、道長が可愛がっていた源頼親という貴族の邸も襲撃するぞという手酷いものでした。しかし、それでも道長はまったく怯むことがなかったそうです。

 ドラマでは一条天皇(塩野瑛久さん)が、右大臣からの推薦を受け、問題行動が目立つ彼の家人(けにん)・平維衡(たいらのこれひら、日本初の武家政権を作った平清盛の先祖)を国司に据えようとして道長と対立していました。道長の主張を要約すると、こういう私利私欲を重視した人事を朝廷が容認していると、世間のあちこちで、正義ではなく武力によって欲求を通す風習が根付いてしまうということだったと思われます。しかし道長本人が、その直後に彼自身の氏寺・興福寺によって武力脅迫を受ける事態になったのは、皮肉というしかありません。

 ドラマの道長が片時も正義感を失わないヒーローであるのに対し、史実の道長はそういうわけではまったくなく、「マフィアの親玉」的な人物だったことは、これまでも折に触れてお話してきました。興福寺の定澄たちが道長を訪ねてきた理由は、大和国(現在の奈良県)の実質的な領主である興福寺と、朝廷――実質的には左大臣である道長の強い推薦で派遣されてきた国司・源頼親(みなもとのよりちか)という人物の間で、利益をめぐっての抗争が激化しており(現在のとある界隈における「シマの取り合い」のノリ)、それをなんとかしてほしいというお願いだったのですね。

 源頼親が大和国の国司・大和守になることが決まったのは、寛弘3年(1006年)の春の除目(じもく)でした。しかし頼親が大和守になる以前から、頼親の部下・当麻為頼(たいまためより)と興福寺の僧・蓮聖との間には、田の所有権を巡る紛争が発生しており(当時の言葉では「競田」)、道長の日記『御堂関白記』によると同年6月、源頼親の指示を受けた当麻為頼が、問題の田んぼを暴力で奪い取ったらしいのです。この報復として、興福寺は3000人の僧たちで当麻為頼の邸を襲撃しました。