史実における紫式部初出仕の時期には諸説あるものの、寛弘2年(1005年)12月末だったのではないかと考えられています。宮中でもっとも忙しい正月の行事は乗り切りましたが、その後の紫式部は彰子の許可も得ずに宿下がりして、職場からの出仕要請を無視し、自邸に引きこもって執筆に勤しんだようです。次の宮中への出仕はなんと秋になってからでした。

 なかなかの職務怠慢ぶりですが、それでもクビにならなかったのは、紫式部を登用した道長と彼女の間に、『源氏物語』の執筆を最重視し、リモートワークでも可、という契約事項が内々に定まっていたからなのでしょうね。

 そうそう、最近のドラマ本編では、まひろが執筆する姿がよく映るようになりましたが、あんな「かな書道」をする時のような、ゆったり優雅な筆運びで、次から次へと湧いてくるアイデアを余さず書き留めることなどできないだろう……と、物書きのハシクレである筆者には違和感が強いのです。

 平安時代中期くらいの筆記用具はかなり高価で、特に紙は「わら半紙」程度の大きさでも現在なら1枚1000円~数千円程度はした超高級品でした。いくら左大臣・道長がスポンサーになってくれたとはいえ、ああいう越前の和紙に、丁寧に書いていくのは清書の段階からだったはずです。

 平安時代末の歌人・藤原定家は、古典文学の研究者としても知られましたが、古典を筆写する際、定家様(ていかよう、つまりは「定家スタイル」という意味)と呼ばれることになる「自家製フォント」を使ったことでも有名です。定家様は一見、ただの「悪筆(あくひつ)」なのですが、早く書けるし、読み間違いも少ないため、実用性が高いのでした。

『源氏物語』は、まさに藤原定家と関係者たちによる写本=「青表紙本(あおびょうしぼん)」と呼ばれる本を中心に、何種類かの写本が現存しているだけで、原本と呼ぶべきものは紛失してしまったのですが、清書前の紫式部も、定家以上に想像の赴くまま、イマジネーションがほとばしるがままに筆を走らせていたのではないでしょうか。