しかし当時の宮中関係者には、定子が『枕草子』で描かれているように、幸福なだけの明るい人生を歩んだ女性ではないことは「常識」ですから、あえてまったく定子の影を描かない作品が話題を呼べば、それは暗に反・定子派のトップであった道長を批判することに等しくなります。

 だからこそ道長は、自分の息がかかった存在である為時の娘・紫式部を見いだし、『枕草子』に対抗しうる物語を描かせずにはいられなかったし、紫式部も公開を目的とした『紫式部日記』に、史実の清少納言とは深い交流などなかったと考えられるのに「風流ぶっているだけ、知的ぶっているだけの底の浅い女」などと酷評する一節を書き込まざるを得なかったのでしょう。

 清少納言の人生を振り返ると、そういう道長の「やり口」が本当に嫌だったのではないかと想像し得る要素が多いのは興味深いことです。

 清少納言の兄・致信、そして彼女の最初の夫・橘則光は道長に仕えた形跡が濃厚な「道長派」であり、そういう婿を見いだした彼女の父・元輔も「道長派」であったと考えられるのですが、清少納言自身は一貫して、「道長派」につこうとはしなかったのではないかと考えられます。

 ドラマの道長とは逆に、史実の道長は(詮子同様に)権力を背景に「やりたい放題」で、彼らに迎合し、長いものには巻かれようとする者と、それを良しとはしない者に当時の貴族社会は分断されていたのです。

 清少納言の兄・致信は、「道長派」内の派閥抗争に巻き込まれた結果、寛仁元年(1017年)3月8日、自宅においてリンチ殺人されています。ドラマの時間軸では16年以上先の出来事ではあり、清少納言の兄が登場していないので描かれることはないでしょう。しかし、当時の貴族社会の裏面を象徴する事件だったことは覚えておいてほしいのです。

 また同じくドラマには未登場なのですが、史実の清少納言にはすでに二人目の夫・藤原棟世がいました。

 最初の夫・橘則光との離婚理由が「風流を解さない男だったから」などといわれていますが、それは表向きの理由で、本当は彼が「道長派」であったことが清少納言には一番、気に食わなかったのではないか、と筆者は考えています。