──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回の『光る君へ』(第29回)では、まひろ(吉高由里子さん)の夫・藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)、そして道長(柄本佑さん)の姉・詮子(吉田羊さん)が亡くなりました。両者とも長保3年(1001年)に相次いで亡くなっているので、史実通りの展開ですが、長らく病気がちだった詮子はともかく、宣孝は「翌朝、国守を務める山城国府に出かけた宣孝は、それきり、戻ってこなかった」と、ナレーションで突然告げられるだけの「ナレ死」で、筆者の周辺では「あまりにあっけなさすぎる」と話題になりました。

 実際、当時は本当にあっさりと人が亡くなったものです。医学も発達していませんから、風邪をこじらせて亡くなるケースなども本当に多かったのですよ。

 また、当時は平均寿命も二十代のうちに尽きていました。もちろん、「乳飲み子のうちに大半が亡くなってしまう時代だったから」といわれつつも、「成人を迎えられた人は、それなりに長く生きるケースも多かった」と考えられてはいます。

 しかし、平均寿命が80歳代に到達した現代日本とは大きく違い、詮子が「四十の賀」つまり、40歳を超えることができたことを「長寿」として祝われていたことに明らかなように、人生の終わりがはっきりと見えてくる年代が「アラフォー」なのが当時の感覚でした。要するにそれ以降は、「いつ死んでもおかしくはない」と覚悟すべきというのが、平安時代の暗黙の了解だったと考えてよいでしょう。

 ちなみに一条天皇(塩野瑛久さん)も参加した詮子の四十の賀は、史実では長保3年(1001年)10月9日で、その後は石山寺詣に出かけたりできていた詮子ですが、体調が大きく崩れたのは12月上旬のことでした。

 同月16日には一条天皇から最後の見舞いを受けますが、その直後に生前の罪の抹消と、極楽往生を目的として剃髪しており、亡くなったのは12月22日だったようですね。ドラマでは道長に伊周(三浦翔平さん)の復位などを頼んでから亡くなっていましたが、詮子とは仲が悪かった長兄・道隆(ドラマでは井浦新さん)の怨霊に苦しめられた末の死だったという不穏な記録もあります。