ドラマでは詮子が天皇のあまりの冷遇に怒り、「実家」東三条邸に帰らせていただきます!と宣言していましたが(史実では懐仁親王が11歳のときの話のようです)、史実の詮子はその前からちょくちょく(父親からの呼び出しを受けて)「実家」に戻っていたようです。それを天皇から咎められた兼家は「自分は右大臣にすぎず、最高権力者・関白でもないような者の娘(詮子)を天皇のおそばにずっと置いておくなどもったいなくて……」と皮肉を言ったとする逸話もあり、なかなかの態度の父娘であったようですね。
「天皇の妃」というより、「右大臣の娘」――もっというと「兼家パパの娘」として振る舞いたがる史実の詮子に対し、ドラマの詮子はそこまで困った女性というわけではなさそうです。しかし、寛和2年(986年)、兼家の極悪非道な陰謀で花山天皇が退位し、詮子と円融天皇の皇子・懐仁新王が一条天皇として即位すると、後宮を出てからは「実家」東三条邸にこもりっぱなしで、円融天皇の中宮になれず女御どまりだった詮子が、一足飛びで皇太后に大昇進しています。この大出世は日本の歴史上、初めての出来事でした。
史実でも詮子は長兄・道隆は苦手で、弟の道長をかわいがっており、詮子が皇太后になって以降、道長の出世はさらに目覚ましくなるのですが、それはまた後のお話です。
平安時代の貴族たち、特に出世街道を突き進む青年貴族たちは、現代人が驚くほど忙しくしているのが通例でした。そういう史実がドラマで描かれていくのか、あまり描かれないのか、今後とも注目していきたいと思います。
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