そして天元2年(979年)、その媓子が亡くなります。

 有力な妃としては、道長の姉にあたる詮子と、藤原遵子――関白・藤原頼忠の次女。つまり兼家・道長父子にとっては憎きライバルの娘がいたのですが、天元3年(980年)6月、詮子と円融天皇の間に皇子・懐仁(やすひと)親王が生まれました。となれば、次の中宮は常識的には詮子になるわけですが、実際に中宮に選ばれたのは遵子でした。

 ドラマでは冷淡な天皇が詮子から遵子に心変わりしたと描かれていましたが、実際はそこまで単純な話ではなく、兼家と天皇の関係が悪化し、兼家の娘である詮子も遠ざけられたという部分が強そうです。天皇は詮子にかなり本気になっていたのではないかと思われますが、天皇の好意を、詮子の父親である兼家が政治利用しようと、娘を使って天皇を動かそうとしたことが積み重なり、天皇の気持ちは詮子から離れてしまった……という、いかにも後宮らしいドラマがあったような気はします。史実でも、詮子が「実家」に戻ってしまったのは遵子が中宮になったことを受けてのようですね。しかし、遵子も天皇との間には子どもを授からぬままでした。

 史実の円融天皇はロマンティックな恋愛至上主義者だったのかもしれません。後継ぎを生んだ妃をさらに高い地位に取り立て、出世させることで、妃の実家が天皇をより強くバックアップしてくれるわけなのですが、そういう「大人の事情」に与することを円融天皇は嫌ったのでしょうか。天皇と詮子との関係が冷却していったのも、史実の彼女が父親・兼家のロボットで、本当は計算高い女であり、自分への好意も演技であると天皇が見抜いてしまったからかもしれません。