詮子は、天元元年(978年)8月に円融天皇の女御(お妃の1人)として入内しました。この後、同年10月10月に、詮子の父・兼家が従二位、右大臣という高い身分、官職を得ています。年若い道長が高待遇を受けられたのも詮子、そして兼家あってのことでした。
しかし、史実の道長に昇殿の許しが与えられた、つまり天皇のお側にはべることが許される「殿上人」という特別な身分になれたのは、天元5年(982年)1月です。
また、道長に具体的な官職が与えられたのはその1年後、つまり天元6年(983年)1月で、その時になったのは「侍従」でした。天皇の補佐官というか、わかりやすくいえば「付き人」のような存在でしょうか。
道長が、「右兵衛権佐」という官位を得たのはさらにその翌年、永観2年(984年)のことで、ドラマでは現代人の目には細々と映るような、年単位におよぶ出世劇はスパッと省略されてしまったのでしょうか(右兵衛権佐の仕事内容については、先のNHKの公式解説サイトをご覧ください)。
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